つぶやき会議室

つぶやきなのに、会議室です。会議室ですが、つぶやきます。

1999/08/02(07:55) from 164.124.70.149
作成者 : きんちょ (ak@chuwol.com) アクセス回数 : 200 , 行数 : 322
【部分訳】『日帝は朝鮮をいかにほろぼしたか』
 以下に翻訳したものは、

  日帝は朝鮮をどのように滅ぼしたか  日帝残虐史70年の記録
  KIM SamUng 著 1998年3月1日 発売 図書出版Saram Gwa Saram

という本の一部で、「慰安婦」問題にかかわる部分です。
著者の 金三雄氏は アジア太平洋財団企画調整室長、
親日問題研究所長だそうです。

 韓国での「慰安婦」問題の認識の ひとつのパターンを
みるために 紹介します。


 この会議室でも論争になりましたが、韓国では いまも、
「挺身隊」=「慰安婦」という偏見があります。わたしは、
その偏見が修正されつつあると、この会議室での 討論で
主張しましたが、この資料は、その わたしの主張にとっては
不利なものです。

 また、この本には、吉田清治氏の証言も とりあげられて
いますが、これも、いまでは実証性が うたがわれていると
いう事情があります。

 そういうわけで、わたしは この本の内容を すべて 
支持するものではありません。強引な論法も めだちます。
しかし、なかには みみをかたむけるべき点もあると感じ、
あえて紹介するしだいです。

 とりわけ、河野談話以降の与党政治家の発言や、それに
対する閣僚、首相の対応などから、日本政府は河野談話を
放棄したのだと みなしているところなど、するどい指摘では
ないかと おもいました。

 この本の、この章のあとには、「慰安婦」たちの しいられた
苦難について 具体的な記述がありますが、それは いずれ
また紹介します。
 また、今後、「挺身隊」と「慰安婦」の関係について
最近の研究について、別の資料を紹介するつもりでいます。


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 天皇が許可した「女人がり劇」
     1931〜1945年強制従軍慰安婦

 最後まで真実を隠蔽しようとする日本の態度

 「日本軍強制従軍慰安婦」出身で「うばわれた純情」「くやしさ」
などの絵で日本軍慰安婦の惨状を告発してきた 姜景徳(67)ハルモニが
1997年2月2日ソウルで死亡した。彼女の霊安室には姜ハルモニと
いっしょに日帝につれていかれた強制従軍慰安婦のハルモニ20余名が
かけつけ故人の冥福を祈った。
 おなじひ、東京ではある一団の日本極右派が「教科書から慰安婦の
内容をけずれ」という横断幕とプラカードをもってデモをくりひろげた。
97年4月新学期から日本の中学生たちは はじめて あたらしい歴史
教科書で不十分ながら先代たちがおかした蛮行に対してならうように
なっていたのである。強制従軍慰安婦問題に関して あたらしい教科書では
「国内の労働力不足に充当させるために多数の朝鮮人と中国人たちが
強制的に日本につれてこられ、工場などで過酷な労働に従事した。
従軍慰安婦として強制的に戦場におくりだされた女性もおおい。」という
内容がせいぜいだ。
 日本右翼はこの程度の教科書の記述でも ひどい拒否の姿勢をしめし
教科書を編集した出版社と筆者たちを脅迫し、公然と韓国への妄言を
くりかえした。このひとたちは「従軍慰安婦がうそだということは 
おおくの韓国の要人たちや日本の慰安婦問題活動家たちも わかっている
事実だ」といって事実を歪曲しながら教科書を執筆した筆者に対して
テロと脅迫をくわえている。
 このような現状は「いま従軍慰安婦問題を論じているひとたちは当時の
公娼制度をしらずに はなしているのだ。そのころは趣味からか
まずしさから、そのような ふるまいをするひとも いた」という詭弁を
ためらわない 梶山静六官房長官の妄言(1月24日)と、これを追認した
橋本総理発言の延長線上におきたことだ。橋本は「わたしは別府首脳会談で
梶山長官の発言じたいをあやまったのではない。招待したお客さんに
報道内容が不快感をあたえたかもしれないと、お客さんに礼儀として
あやまっただけだ」とキム・ヨンサム大統領で首脳会談でおこなった
官房長官の妄言への謝罪をみずからとりけした。日本政府首脳だけでなく
政治家たちも与野党をえらばず強制従軍慰安婦問題を隠蔽・歪曲する
なかで、いくらかの金銭で慰安婦出身のハルモニたちを「個人補償」で
懐柔しようという破廉恥なふるまいをしている。日本政府は1993年8月4日
当時の河野洋平官房長官のなまえで つぎのような談話を発表した。

1.慰安所設置:過去の慰安婦移送には日本軍が直接・間接に関与した。
2.慰安婦募集:甘言・圧迫など本人の意志に反する事例がおおく官憲たちが
       直接加担したばあいもあった。
3.被害者たちに こころから謝罪と反省をつたえる。

 日本政府はほんの3年で歴史をさかさまに まげながら過去の蛮行を
隠蔽・歪曲しているのだ。ニュールンベルク裁判でナチスの戦犯たちは
「戦争中、戦後をとわず一般住民におかされた非人道的行為または政治的・
人種的・宗教的理由による迫害行為」に対して国際慣習法上「人道に対する
つみ」の法規定が適用され みなが被告席にたった。
 ところが日本のばあい 大部分の戦犯はもちろん、世界の歴史にかつて
類例がない強制慰安婦を企画し、日本軍性欲処理の道具とみなし虐殺しても
かれらをすこしも処罰しなかった。処罰はおろか、事実自体を隠蔽・歪曲させて
いるのだ。国連人権機構は1996年2月6日公式にまとめられた日本軍
軍隊慰安婦関連報告書では日本政府に対して慰安所体制が国際法上の
義務違反だという事実を認定し、これに対する法的な責任を受諾する
ことを催告した。国連人権機構は被害者に対する個別保障とともに 
そのための特別行政裁判所の設置が必要だと勧告した。この問題は
1995年8月、国連人権小委員会でも決議されたが日本はこれをずっと
無視してきた。
 国連人権機構は日本政府に対して 1.慰安所および日本軍の行為に
関連するすべての文書および資料の公開 2.歴史的真実を反映するため 
教科課程の改訂 3.軍隊慰安婦関連の法規違反者の確認・処罰などを
日本政府に勧告した。このように国連の勧告に日本政府は徹底してかおを 
そむけながら「教科書改訂」作業をしてきたのだが、それだけでも
国会議員たちの反対と右翼勢力のテロ脅迫にさらされているのだ。


 民族史の悲劇的な1ページ

 日帝は世界的に類をみない「従軍慰安婦」をつくり朝鮮女性を
ひっぱり日本軍の性欲処理の道具とみなした。このひとたちは民族と
性という二重の虐待をうけなければならなかった。日本軍の慰安所は
朝鮮半島だけでなく日本、満州、中国本土、東南アジア、太平洋諸島に
いたるまで日本軍が駐屯したところであればどこにでも設置された。
われわれはこの間、このひとたちを「従軍慰安婦」または「挺身隊」と
よんできた。しかし厳格な意味で これらの呼称は日本が自分たちの
便宜のために こしらえて つかったきた名称に すぎない。
「従軍慰安婦」の意味をほぐしてみれば「自発的に軍隊にしたがって
いききしながら軍人たちを慰安するひと」で、「挺身隊」は文字の
とおり「からだをささげて しごとをする ひと」の意味だ。どの
朝鮮女性が自発的に日本軍についていって性奴隷になり、みずから
からだをささげ しごとをしようと しただろうか。
 おそきに失したが呼称から たださなければならない。「日本軍
強制慰安婦」と よぶことが より適切である。強制により つれさられ 
慰安婦の つとめを強要させられたのだからだ。北朝鮮では強制慰安婦に
対して「日本が15年戦争時代(1931〜1945)まえと その期間に
戦争の遂行と関連して日本政府と軍部の政策により敢行した組織的な
集団強姦と輪姦管理制度下で被害にあった女性」と定義した(日帝による
朝鮮占領支配被害調査委員会、『日帝が敢行した「従軍慰安婦」犯罪
事件に対する真相調査中間報告書』)。この報告書には1929年または
それ以前から軍隊のなかに慰安所があり、軍需工場にも慰安婦制度が
実施されていたと あきらかにされている。
 日本軍が慰安所をつくること はじまったのは1932年1月の上海事変と
37年南京大虐殺事件が直接の景気になったものと理解される。当時 
日本軍は かずおおくの中国人を虐殺し略奪と放火に あれくれ 特に
占領地女性たちを無差別に強姦した。日本軍の けもののような
強姦行為は中国人たちの はげしい反日感情をよびおこし 占領地を 
おさめるのに すくなからぬ むずかしさを もたらした。このような
遠因で日本軍は軍隊が駐屯する すべての地域に性的慰安施設を
整備するように指示した。
 法律的には日中戦争の さなか1937年8月24日に近衛内閣を通じて
「国民挺身総動員実施要項」が決定された。この国民挺身総動員運動により
いわゆる女性の「報国活動」が奨励され38年4月「国家総動員法」の
公布で女性の動員が強制された。1941年11月には国民勤労報国協会令が
でて14歳以上25歳未満の女性を1年に30日いないの国民勤労報国隊に
協力させることができるようにした。さらに43年6月には「30日」を
「60日」に、44年11月には「25歳未満」を「40歳未満」に
改訂した。
 1941年8月には国民徴用令の改訂で女性の徴用を法的に規定し、
また43年9月には「女子勤労動員の促進に関する件」を決定し、
「女子勤労挺身隊」を編成させ強制的に女性たちを動員した。44年
8月には「女子挺身勤労令」が公布され挺身隊が法律的に義務化された。
 1910年から日帝によって朝鮮の女性を日本に うりわたし売春を
されることが日常的に おこなわれていた。従軍慰安婦は これを
背景に国家と軍隊の関与のもと組織的に強制募集、管理された。その
数字は10万名から20万名と主張されていて、その8割が朝鮮人
女性だった(高木健一『戦後補償の論理』)。1941年前半期までは
おおむね御用ポンビキたちが行政官庁や警察駐在所巡査たちを
ともなって いききしながら まずしい朝鮮女性たちを日本内地の
工場や軍隊で洗濯の しごとをするといって あざむく てぐちで
ひきつれていった。当時 たべてくらすのが むずかしい農村の 
むすめたちが 自分の意志半分、他人の意志半分で このような 
ひとびとに だまされて つれていかれた。ところが その としの
後半からは 邑・面事務所や駐在所のような じもとの行政機関が
より体系的に配当された人数を「志願」させる形態に転換された。
このときから官吏が直接 募集に のりだしたのだ。このようにして
朝鮮三千里の ほうぼうで かずおおくの わかい女性が強制されて
つれていかれ日本軍の性の おもちゃに され、前線の部隊では
弾薬運搬や患者看護の役まで ひきうけながら 残酷な「性奴隷」と
ならなければならなかった。ところが日本軍は敗走するときになると
きまって このひとたちを虐殺したり戦地へ おきざりにして 
うえじにをさせたり こごえじにをさせたり した。

 としの おさない少女まで つれていった「人間かりゅうど」

 1943年から1945年8月8日敗戦[ママ]まで日本・山口労務報国会 動員
部長として はたらいた 吉田清治は1991年11月21日 北海道新聞との
会見で「遺言をのこす心情」で朝鮮の女性たちを従軍慰安婦として
強制連行した自分自身の体験をうちあけた。吉田は国内マスコミの
インタビューでも自身の朝鮮の女性たちを強制連行し従軍慰安婦として
おくりだした事実をなまなましく あかした。吉田は「人間かりゅうど」
に なり婦女子 6,000名を連行した自分の非人道的行為をおくればせながら
なみだながらに懺悔した。
 吉田の証言を中心に日帝の慰安婦強制動員の実態と かのじょらが 
あじわった非人間的惨状の一部をさぐってみよう。
 当時 朝鮮人強制徴用は「大日本労務報国会」が担当していた。
吉田が責任者であった日本・山口件労務報国会は慶尚南道・全羅南道・
済州道などで男女3万余名をひきつれさった。太平洋戦争がおこるや
はじめは建設労務者を各地で ひきあつめる しごとが 労務報国会の
任務だった。ところが戦争が鮮烈になった1943年ごろから朝鮮人慰安婦を
ひきあつめろという命令が おりた。労務報国会は警察組織の
外郭団体だったのだが、山口県警察局をつうじて「皇軍慰問朝鮮人
女子挺身隊動員に関する件」という軍命令が下達されたということだ。
軍部が規定した挺身隊員の年齢は初期には20歳〜30歳ぐらいまでだった。
既婚者も可能だったが妊婦は除外し、性病検査を実施して勤務勤務期間は
2年とすると明示されていた。しかし朝鮮の わかい女性を あちこちで 
てあたり次第に ひきつれさっていったため該当する婦女子が 
いなくなると13、4歳の としの おさない少女や既婚者も かまわず
ひっぱっていった。
 吉田が うけた命令書は福岡に駐屯している西部軍第74部隊へ
50名ぐらいの朝鮮の女性を20日以内に つれてこいという内容だった。
吉田は関釜連絡船に のり下関から釜山を往来し朝鮮の女性を
ひきあつめ、時間が切迫しているときは朝鮮の道警察局に電話で
あらかじめ通知していた。吉田が2〜3日後、部下10余名をつれて
現地へ到着したとき すでに予定表が作成されていた。現地警察が
むらの人口を勘案して 何人ずつか わりあてをしておいたのだ。
吉田の一行は警察30〜50名をともなって 警察用の護送トラックで
予定された むらを急襲した。まず警察兵力を折半して わけ 
むら全体を包囲し にげみちをふさぎ のこりは むらの ひとを
一か所に あつめさせた。むらの ひとが全部あつまっても挺身隊に
ひっぱっていくのに あたいする女性は3〜4名に すぎなかった。
にげだした ひとたちは警察が理由をとわず木刀を ふりおろして
たたき、なきさけぶ女性たちをはりとばし ちのみごをうでから 
ひきはなして無理やりトラックにのせた。こどもをおぶってきた 
女性たちは半狂乱状態だった。あかんぼうを女性から つかみだして 
老人に なげわたし ながく たらした かみを ひっぱって 
ひきずり みさかいなく護送車に のせた。3、4歳ぐらいに 
みえる こどもが なきながら護送車をおいかけてきた。その こを 
そのこを つきとばして おしだした。哀願する老人は あしで
けりおとした。その むらが恐怖の るつぼと なった。むらには 
反抗するだけの わかい ものたちは すでに軍隊や労務者として 
つれていかれていて いなかったため たいして反抗は できなかった。
しかも無情な警察が徹底的に監視していたため抵抗することも 
できない状況だった。吉田は主に京畿道・全羅道・済州道を 
くまなく さがしながら このような方法で 「人間がり」を
しでかした。このように ひきあつめられた女性たちは数百数千名に
達したが貨物列車に のせられ釜山へ移送され関釜連絡船に 
のせられた。下関を経由して西部軍司令部に ひきわたすところまでが
吉田の任務だった。ひきつれられてきた朝鮮の女性たちは大部分
中国や南方の日本軍慰安所へ おくられた。
 「吉田」のように任務をおびた数万名の ひとたちは どんな
ためらいもなく軍の命令を着々と実行した。朝鮮人を人間として
とりあつかわなかったと あかされた。日本のための しごとだと
信じていたためだった。朝鮮人強制従軍慰安婦をふくむ強制連行関連の
公式記録や関係文書は敗戦直後 日本の内務次官の通牒によって 
すべて焼却処分にされた。そして日本政府は従軍慰安婦問題に対して
関与したことが ないと いいはってきたのだ。これに対して吉田は
「自分の体験からも わかるように軍と警察と行政機関が一体となって
したことだ」と証言した。

 天皇が署名した従軍慰安婦計画

 吉田の証言にあるように朝鮮女性をひきあつめて日本軍慰安婦とした
挺身隊は日本の軍・警察・行政機関が総動員されて終局的には天皇が
署名した命令によって ほしいままに おこなわれた蛮行だった。
日本帝国主義が国家施策として ほしいままに おこなった非人道的な
犯罪行為なのである。いくらか まえまでも日本政府は従軍慰安婦は
「民間業者が つれてきた もので政府は まったく関与しなかった」と
いいのがれをしてきた。はなはだしくは「朝鮮の女性たちは おかねを
かせぐために」、「娼婦たちが たのしむために」という 驚天動地の
妄言も ためらわなかった。
 しかし最近 日本軍が慰安所設置と慰安婦募集などを指示、
監督したという資料が日本・防衛庁図書館から発見されたことで
日本政府と関連団体らに おおきな打撃が くわえられた。この資料を
発見した吉見義明中央大教授は「当時 軍部隊や支隊単位で慰安婦が
どのくらい いたかが わかる資料であり 軍が関与したということは
明々白々だ」とし、「関与を否定することは はずかしい こと」だと
叱責した。吉見教授は特に「日韓協定で請求権は なくなったと
政府は いうけれども、国家対国家の補償と個人対国家の補償は
別の問題」で、「政府は謝罪は もちろん 補償もするべきだ」と
強調した。
 吉見教授が さがしだした日本の挺身隊関連資料のなかには
<戦時旬報(後方関係)波集団司令部「慰安所の状況」>とあり 
それに つづく内容も ふくまれていた。

  慰安所は所管警備隊長および憲兵隊監督のもとに警備地区内将校以下の
 ために開業したこと
  軍隊[元資料では「近来」]各種慰安設備(食堂・カフェー・料理屋など)の
 増加とともに軍慰安所は しだいに衰微の兆候であること
  現在 従業婦女の数は おおむね1000名内外で軍が統制しているのは
 約 850名、各部隊郷土から よんだのが約 150名と推定されること。
 そのほかに第一線で慰安所の設置が困難である場合 現地人を使用する
 ことが ときおり あること

−−−
以下の元資料は、
<戦時旬報(後方関係)波集団司令部「慰安所の状況」>
ではなく
北支那方面参謀長による「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒」1938.6.27 であり、いくつかの部分が合成されているが、本書にはその説明がない。
                                −−−訳者注
                              
  
  最近おこった[元資料には以上の部分はない]軍人および軍隊の住民に対する
 不法行為が住民の怨嗟をかい反抗意識をあおり、共産抗日系分子の民衆
 煽動の口実となり治安工作に重大な悪影響をおよぼしていること
  軍人個人の行為を厳重に とりしまると ともに迅速に性的慰安の
 設備をととのえ設備が ないため 本意でなく禁をおかす ものが 
 ないように しようとすること

 日本軍が組織的に慰安婦問題に関与した決定的な証拠が発見されたと
いうことだ。しかし もっと おどろくべきことには 挺身隊募集に天皇が
直接 署名していたという事実だ。1944年8月23日づけで告示された日本の
法令 第 519号の挺身隊募集関連の法律は天皇と内閣の総理、軍需ママ、内務、
厚生大臣が署名捺印している。「女子挺身勤労令を裁可し これを告示する」
と指摘された この命令は全文23条で構成、挺身隊の選抜方法、期間などが
詳細に明示されている。各条項ごとに「命令により」、「命令が さだめた
ところにより」という規定されている この法令は 挺身隊動員が強制的で
日本政府の施策であったことを立証する。
 日本政府が挺身隊を強制動員した具体的な立証資料は米国の公式文書からも
公開されているところだ。1991年12月20日駐米韓国大使館がアメリカ国立文書局で
さる1944年8〜9月、当時の米軍心理戦チームが挺身隊に強制動員された朝鮮の
女性慰安婦たちと日本人慰安所運営担当者たちを対象に実施した尋問をもとに
作成された報告書から あきらかにしたものだ。
 第二次大戦 東南アジア地域(心理戦尋問報告)第2巻に収録された この
報告書は1944年当時ビルマ戦線に投入された20名の朝鮮の女性の挺身隊と
2名の日本人運営担当者の陳述をもとに その充員方式と運営現況、そして
その過程を公式に主導した日本軍の介入を詳細に記録、日本政府が公式に
関連していたことをあきらかにしている。この報告書によると朝鮮内で
挺身隊募集過程では日本の許可が必要で、日本軍は挺身隊の通行の便宜のため
船舶を提供した事実などをはじめて あきらかにしている。
 挺身隊たちが合同投宿した慰安所の運営は部隊別・階級別に作成した
時間表にしたがって運営されており、秩序維持のため日本憲兵が配置され、
毎週水曜日ごとに日本軍医官たちが慰安婦たちの性別などを検診するなど
日本軍の厳格な監督下に運営されていたことも公式に確認された。このように
根拠資料が明白にあきらかにしていても いまの日本政府と右翼勢力は
「従軍慰安婦は娼婦出身だ」「おかねをかせぐために自発的に売淫をした」
などという妄言をほったらかしたまま懺悔や反省の ひかりを徹底して
拒否している。

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