いよいよ3月。
韓国は新学期です。
さて、それでは、お勉強。
みなさん、どれだけ しっていますか?
「ああ、ああ、しってるよ。
日本が わるいこと、したんだろ。
でもな、
あの時代は いまと ちがうからな。
いまの価値観で ああだこうだ
いうのは、ちと
自虐的じゃなかろうか」なんて、
おもってや しませんか?
しってるつもりで、
ちゃんと しらないこと、
けっこう あるものですよ。
さあ、確認してみましょう。
1919年の3・1運動は、
高宗の死去を契機にして
国葬の直前に 勃発しました。
それが、中国の5・4運動へと
つながります。
高宗は朝鮮王朝の
最後から2番めの王でした。
高宗を脅迫して保護条約をせまり、
のちに抵抗が発覚すると
それを追及して譲位させたのが
伊藤博文です。
伊藤博文は1909年に暗殺されますが、
大韓帝国は翌年、日本に併合されて
しまいました。
高宗は毒殺されたという説が あります。
それはともかく、
高宗をあやつっていた閔妃が
1895年に暗殺されたのは、
日本人の一団が王宮に乱入しての
狼藉であることが はっきりしています。
それを指揮したのが
日本公使・三浦梧楼でした。
そんなことをしても平気だったのは、
すでに日本の軍隊が朝鮮の王宮を制圧して
クーデターをおこした経験が
あったからです。
閔妃暗殺の前年の「甲午政変」です。
これが日清戦争の はじまりでした。
日清戦争は朝鮮で たたかわれました。
朝鮮王朝は、日清戦争の直前、
朝鮮に清国の軍隊をよびました。
東学の蜂起(甲午農民戦争)を
おさえられなくなったからです。
日本は、よばれていないのに
「清がいくなら おれもいく」と
でていったのです。
このとき、朝鮮政府と農民軍は
外国の干渉をふせぐため
和議をむすびます。
朝鮮は、清国と日本が ともに
軍隊を撤収することを のぞみました。
清の袁世凱と日本の大鳥公使の あいだで
一部撤兵の合意も成立しました。
しかし、外相・陸奥宗光は、
日本軍を なおも増派し、
いすわらせました。
そして、クーデターをおこし、
朝鮮に親日政策を強要しました。
その結果、清国との戦争に なりました。
朝鮮をふみあらして。
日本の かかげた大義名分は、
「宗主国・清からの朝鮮の独立」でした。
しかし、それには、
「朝鮮の政権が
日本の意のままに
ならないのは、それが清国に
支配されているからだ」が、
「独立した朝鮮が 日本に したがうのは
みずからの意志に よるものだ」という
みがってな前提が ついていました。
実際、朝鮮から清国を駆逐した日本は、
15年後には、朝鮮の「独立」を
うばいます。
「独立」の大義名分は、いとも簡単に
「国利民福」へと かわりました。
日本は、
朝鮮を侵略して
日清戦争をおこしました。
中国・南洋・東南アジアを侵略して
太平洋戦争をおこしました。
これを、
「日清戦争で清を」、
「太平洋戦争で米英を」と
かんがえるから、侵略かどうかが
あいまいになるのです。
1894年のクーデターと
1895年の閔妃殺害のあいだ、
清国が日本に敗退をつづけていったため、
朝鮮王宮は、ロシアに接近します。
日本の支配をまぬかれるためでした。
最近になって このことを、
「日本が でていかなければ
朝鮮はロシアに支配されていた」と
表現するひとが
います。
「自由主義史観」をなのり、
あたらしい教科書をつくる運動をしている
ひとたちです。
事実は、
「これ以上、日本に やられるくらいなら、
ロシアのほうが よっぽどいい」
だったのです。
日本に のっとられそうになった朝鮮が
ロシアに たすけをもとめたと
いうのが、事実に ちかいのです。
朝鮮にとって日本は、
あきらかに
ロシアよりも凶暴な くにでした。
じゃまものは けされ、王宮の抵抗が
封じこまれ、最後に のこった
高宗までもが なくなったとき、
民衆の独立運動が
はじまりました。
容赦ないの弾圧が かけられました。
しかし、それはアジアに おける
市民革命の 最初の一歩でした。
そして、きょうは その
81年後の3・1節です。