日記

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2006年11月4日(土) なんでも計算ずくの発言として とらえる風潮

「世間の人たちは『死刑になるのが怖くなり、本心からの謝罪ではない』と批判的にしかとらえない」

奈良県でおきた幼女殺害事件で死刑判決が確定した死刑囚は,判決が確定するまえ,控訴をすすめる弁護士に対し,みずから控訴しないことをきめ,つたえたという。そのことに関連し,雑誌編集者への手紙に本人が かいたことが,うえの発言。

この死刑囚は,最近になって 遺族への謝罪をつづった手紙を弁護士に託したという。遺族は受け取り拒否。

新聞記事によれば全国犯罪被害者の会(あすの会)の あるメンバーは「心からの謝罪は期待できない。先延ばしせず適切に刑を執行してほしい」と かたっているという。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/archive/news/2006/10/11/20061011ddm041040107000c.html

こうしたことをつなげて かんがえれば,この死刑囚は,「謝罪」を「心からの謝罪」だと うけとってもらうために控訴を断念したということになる。

そこには,死刑をうけいれ,処刑されるのでなければ「心からの謝罪」だとは うけとらない…という 世間の圧力が はっきりとした かたちで あらわれている。

なら,「心からの謝罪」をしているかどうかを裁判で審理するということは永遠に不可能になってしまうだろう。なぜなら,死刑にならないかぎり「謝罪」は「死刑をのがれるため」としか うけとられないのだから。

しかし,…。あえて いいたい。
この死刑囚が 「謝罪の心」が あるのかどうかについて,どこまでも うがった みかたでしか とらえようとしない われわれの「心」に問題はないのか。

わたしは,あえて,いいたい。被害者のほうにだって「ゆるす心」が あるのかどうか,この死刑囚の100分の1でもいいから,ほんとうに「ゆるす心」が あるのかどうかを被害者に あえて とうということが あっても いいのではないか。ゆるす気もちが はじめからない被害者が「心からの謝罪ではない」という発言をするのなら,それだって「死刑にしてほしいから」という「計算からの発言」だと いえないか。ならば,そのことを「被害者の感情に配慮する」というリクツで周囲が重要視するのも,同様に,いきすぎではないのか。

こういうことをきちんと かんがえるということは,加害者に味方するということとも,被害者をさらにくるしめるということとは ちがうことだと おもう。こういうことを冷静に かんがえるのでなければ「法治」というものは なりたたないのではないか。

−−−−−
追記:

「加害者がしたことをしっているのか,被害者の遺族が ゆるせないというのは当然だし,ゆるせないという以前に,おもいだしたくもないだろう」という おしかりをうけました。

わたしは遺族の かたがたに「許すべきだ」とは いいません。しかし,裁判や報道に たずさわる ものは,遺族の被害感情からは一定の距離をおくべきだと おもいます。

事件があまりにも凄惨で,つたえられていないことも まだ あるということです。そういうことも あるでしょう。

この死刑囚のことについても,つたえられていないことが あります。いや,つたえようとする ごく少数の努力が あるのですが,まったく無視されています。以下の記事にある事実について,どれだけの ひとが,しっているでしょうか。

http://tsukuru.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_6274.html

かりに死刑が執行されるとしても,おおくの ひとが このことをしって この くにが死刑を執行したということをわたしたちが うけとめるのと,ただ ひたすら極悪非道な鬼畜が処刑されたと うけとめるのとでは,のこされた わたしたちへの その死刑執行の意味が おおきく かわってくるはずです。

わたしたちは,ものごとをうけとめるとき,葛藤の すくない うけとめかたをしようとしがちです。だから,たとえば善と悪のような単純な図式に あてはめようと しがちです。そのほうが葛藤せずに理解できるからです。そして,それが快楽原則にも あてはまるので,マスコミも そういう図式的な理解に追随しがちです。でも,そのために不都合な事実が けされ,あっても なかったことにされてしまって いいのでしょうか。わたしが あえて異をとなえる理由は そこにあります。

2006年11月23日(木) “いのち”『で』美化するな!

 日本では中高生の自殺,自殺予告がニュースになっている。

 あいもかわらず“いのち”を大切にしろと説教する ひとが いるようだ。
 しばらくすると,マスコミが とりあげると連鎖反応が おこるからと,報道を自粛するという反応も あらわれてきたようだ。
 
 しんでしまっては なにもならないと いいながら,しんだときだけ おおきく とりあげてきたマスコミ。ずっと そうだったではないか。「しねば とりあげてくれる。」「しななきゃ,とりあげても くれない」というのが,唯一,真実味のあるマスコミからのメッセージだったのではないか。

 あの死刑囚も おなじようなことをいっていた。前回かいたとおり。「死刑にならなきゃ,なにをいっても刑をのがれたいために いってるとしか おもわれないんでしょ」と。死刑囚をそこまで おいつめたものは,なんのことはない,死刑囚に対してのときに かぎったことではない ありふれた よのなかの感情だ。なにも わるいことをしていない いじめの被害者に対してでさえ,わたしたちの社会は しらずしらずに要求してきてたのだ。「しんでみろよ,しんだら いい分をきいてやるから」と。

 ほんとうは いい分をきこうという気も ないのだ。イラクで ころされた青年は,しんだけれどもバッシングに あった。ましてや ころされずに かえって きた ひとたちは,わるものあつかいまで された。その「いい分」が ききたくない いい分だったから。きかされる ほうが,めんどうをかかえてしまうような ここちよくならない いい分だったから。なにひとつ おちどの ない被害者が同情の余地のない凶悪な加害者に ころされる…そんな悲劇に いろどられた被害者の遺言は うつくしく,みみに ここちよい。いかりをあらわにした遺族の ことばも感情を刺激し,適度の興奮をえるための道具になる。そこからは いまの自分たちの ありようが とわれることは絶対にないから。自分たちは いつでも おびやかされているのだと再確認させてくれることで,毎日くりかえされる 自分たちの小悪も,不善も,微罪も,欺瞞も,卑怯も,すべて あらいながされるから。

 演出は ますます なりふりかまわず,ほとんど舞台うらが みえるほどまでに露骨になっている。くりかえし ながされるのは,被害者じしんの こえではない。おちどのない被害者が ころされたり,そうでもなければ 他国へ ひとさらいに あったりでも すると,だれかが代弁者に したてられ,にくしみをかたる代弁者の こえだけが増幅されて つたえられる。それに くらべたら,いきて かえってきた被害者は ずいぶん寡黙だ。なぜか代弁者は雄弁だ。雄弁でなくなった なんにんかは,代弁者の座を いつのまにか はずされた。

 「いのちを大切にしろ」。そうだ。いのちは たいせつだ。いのちをたたえよう。いのちを美化するのも けっこうだ。

 しかし,「いのちをたたえる」ことと「いのち『で』美化する」こととは正反対だ。美化されるのは“いのち”ではなくて,被害意識の共有である。いや,ひとの“いのち”を脚色の道具に つかって集団意識をつよめようなどというのは美というよりは醜悪に属する おこないではないかろうか。

 「なぜ,しぬまえに いわなかったのか」。そうコメントする ひとも いる。では,なぜ,しぬまえに とりあげないのか。しななくても告発できる やりかたをおしえないのか。しななくても告発できて,いじめた ひとたちを処罰し,再度いじめることが できなくなるような処置を本気で かんがえないのか。被害者が しのうが,しななかろうが,被害者に いじめられる原因なるものが あろうが なかろうが,加害者が したことが “いじめ”であれば,加害者が罰せられなければならないはずだ。被害者の無垢性によって加害者の罪状に差がでるというのは おかしなことだ。「悪いことは悪い」と だれでも いうが,実際は,「悪くないひとが 被害にあったら 悪い(悪いひとを被害にあわせるのは さして悪いことでない)」ということに すりかえられている。

 「いのち『で』美化する」。わたしたちは その極限形態をしっている。靖国神社だ。いのちをうしなった ひとによって ひとびとの感情を組織する この神社が,いのちの とうとさをうったえながら,実際には ますます すすんで いのちをさしだす人間をつくりだす方向に機能している。たしかに靖国の思想は,自殺を奨励しないだろう。国家にささげてもらわなければならない いのちなのだから。しかし,靖国の思想を批判しない ひとが「いのちを大切にしろ」と いうことには有効性がない。なぜなら,「いのち『で』美化する」ことを肯定しているのだから。“いのち”を「美化」するための道具にすることを否定していないのだから。しなないで,自分をしなせようとする ひとたちに対してこそ たたかう ひとびとに敵対しているのだから。

 「いのち『を』大切にする」とは,みずから しのうとも だれかをころそうともせずに,自分をしなせようとする ひとたちに対してこそ たたかうことだ。すでに死刑囚となっている ひとをころそうとすることが 「いのち『を』大切にする」ことだとは どうしても おもえない。しんだ ひとをしんでから被害者あつかいすることも「いのち『を』大切にする」ことでは ないだろう。いま,ころされようと している ひとをどれだけ たすけられるか,というところから出発するのでなければ,「いのち『を』大切にする」は「いのち『で』美化する」に変質させられてしまう。

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