日記

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2006年10月12日(木) なんなの?!

 自分のたちばをわきまえていないのは,どちらのほうなんだろう。

 10月12日21時58分『毎日新聞』の記事によると,以下のようなことが あったそう。

   耐震データ偽造事件で、構造計算書を改ざんしたとして
   建築基準法違反などに問われた元1級建築士、○○○○
   被告(49)の12日の東京地裁公判で、川口政明裁判
   長が○○被告に「あなたには切迫感がない」などと「説
   教」を繰り返した。
   …
   川口裁判長は○○被告に「ベンツとBMWを持っていな
   がら『生活に苦しくてやった』というのは何か違うので
   はないか」と質問。○○被告が「車はローンです」と答
   えると「弁解になってない。あなたには切迫感がない」
   と指摘した。この後も「息子さんがあなたのために証人
   出廷してくれたが、普通は逆でしょう。情けない話です
   よ」「あなた、もう少し『大変なことをした』という気
   持ちがないと、皆の怒りの持っていきようがないんです
   よ」などと質問を続けた。

いつから裁判というのは,「皆」の「怒りの持って行く」場をつくるためのものになったのだろう。

裁判の被告人というのは,いつから 「皆」の「怒り」の はけぐちに なったのだろう。

裁判官というのは,いつから 説教をするのが なりわいになったのだろう。

裁判官は,被告に対して予断をもつことなく,すききらいの感情ではなく,自己の良心のみに もとづいて事実が どうであったかをみきわめ,有罪とするのにたる行為が あったのかどうかを判断するのが しごとのはず。

わたしからみれば,被告人が自己を弁護するのは あたりまえのことである。それが すべての ひとに あたえられた裁判をうける権利(日本国憲法にかいてある)の具体的な ありかたではないか。自分の こどもが弁護して,なにが わるいのか。親が告訴され,その いいぶんが じゅうぶんに つたえられも うけいれられもしていない状態で公判が ひらかれているのであれば,こどもが証人となって弁護するがわにたつというのは当然のことではないか。それを当然だと おもわないで「なさけないことだ」と談じることができるのであれば,それは はじめから有罪という偏見をもっているからに ほかならない。いったい,これが裁判官のいう ことばなのか。

わたしからみれば,裁判官は,憲法を無視し,被告人の権利を否定し,職責を逸脱した発言を裁判の場で しているのに対し,被告人は なにひとつ 裁判において してはいけないことをしていない。正当な権利の行使をしているだけである。

この くにの裁判は,いつから こんなものになってしまったのだろう。

説教をうけるべきは この裁判官ではないのか。裁判官のくせして,どうして こんな とんでもない
発言が できるのか。それに追随し,批判をしないマスコミ,そして,偽装事件の原因をつくってきた権力構造の末端にいたにすぎない元建築士をスケープゴートにし,どこまでも悪人にしたてることで権力構造の中枢にいる ひとびとを ねこそぎ免罪してしまうようなマスコミの論調にカタルシスをおぼえるような情報の消費者たちも,いったい なにをかんがえているのか。

いったい,この くには,いつから 民主主義の たてまえさえも こわしてしまうことに無頓着になったのだろう。たてまえすら まもれないのなら,なかみが そなわるはずもないのが民主主義というものだろう。

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Akiary v.0.51