日記

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2006年1月1日(日) 紅白をみて連想したこと

 年末年始は実家に かえっていることもあって,特に みたいわけではなくても『紅白』をみてしまう。

 で,ずっと みていて おもったのだけれども,なにかに にている。どこかで みたことのある この風景。

 わたしが おもいだしたのは,韓国でカラオケに いったときの風景でした。すごい いきおいで曲をいれて,順番が きたら ちょっとだけ うたって すぐにスピードをあげたり,途中でカットして すぐ つぎの曲に すすもうとする。わたしは自分の番だけは 前奏も間奏も つけて 伴奏がおわるまで とめたくないのだけれども,そんなことをしたら大ひんしゅく。

 なんか,そんな風景をおもいださせる進行だった。そんな つめこまなくても いいのにねえ。めまぐるしく かわる曲に,ついていけず,全然情感なんか つたわらないって感じだ。

2006年1月8日(日) 雪害におもう

 北陸や東北西部の雪害がたいへんだ。

 だれかがテレビで,どうしても ゆきの害は地域のニュースだと おもわれがちだと
いうようなことをいっていた。

 でも,12月から もう ゆきのせいで60人ちかい かたが なくなっているという。
新聞をよんでいて悲惨だなと おもったのは,90代と70代の はは・むすめの世帯が いえが 2メートルにもなる ゆきに おしつぶされて ふたりとも なくなったという記事。

 高齢化とか地方きりすてとか,いまの日本の社会問題が集約されたような事件だと おもった。

2006年1月16日(月) 「感動」禁止!

 KKペストセラーズが だしている「ベスト新書」から

 「感動」禁止! 「涙」を消費する人々 
           八柏 龍紀(やがしら たつのり)

という本をかった。

 「感動」が商品のように大量生産,大量消費される よのなかになっているという指摘は,実感と合致する。いわれてみれば,それほど おかしなことは ないのではないか。個性も人間性も なくなった やすっぽい「感動」に つつまれたニッポン。まわりの くにの わるくちなど いっている余裕はないくらい アブナイ。

2006年1月23日(月) 「ロリコン」が問題なのか? 速水由紀子への疑問

 連続幼女誘拐殺人事件の宮崎某被告への死刑判決が確定。

  「週刊朝日」(2006.1.27.)によると『恋愛できない男たち』の著者である速水由紀子氏は,「問題なのは,犯罪者予備軍とも言える小児性愛者が,市民権を得たオタクの中に紛れ込んだこと。『変態』とさげすまれてヒッソリ生きていたのが,オタクを名乗ることで小児性愛を正当化し,欲望を発動しやすい環境になってきてしまった」とコメントしている。そのあとに こういう事件になると よく でてくる小田晋氏が ご丁寧にも「日本では『オタクを犯罪者扱いするな』とか『自由な表現が損なわれる』と反発され,規制が十分になされてこなかった」などという反動イデオローグの常とう句をぶらさげながら[1]「性描写に一定の規制が必要だ」というのは いつものこととしても,速水由紀子には まったく がっかりした。
  オタクと小児性愛とは直接関係のない概念だ。たまたま宮崎某被告において その両方の側面が みられたということであるに すぎない。現に,同被告の部屋からみつかった大量のビデオテープのなかに,小児性愛に関するものは 被告本人が犯行時に撮影したもの以外みつからず,ポルノといえるもの自体も おおくは みつからなかったという。また,コミケに ではいりしたり稀少録画番組の収集をしたり,それらに関連するマニアックな知識があったことは「オタク」的ではあるとはいえ,「週刊朝日」の同記事で斎藤環氏が いうように,自分を客観視したり,虚構の世界を構築するために現実とは距離をおくというような「オタク」のもつ典型的な心性を同被告は共有していないのではないかという指摘もある。さらに,そもそも小児性愛じたいは精神疾患のひとつでもあるのだから,それが社会的にうけいれられない以上は治療をほどこすことが必要でこそあれ,「『変態』とさげすまれてヒッソリ生きる」ことを強要することが合理的な解決策になど なるはずがない。
  速水は,「オタクのなかに紛れ込む」という表現をつかっているが,小児性愛者が「オタク」のなかに まぎれこもうとする以上に,大衆のなかで流通する言論が「オタク」「ロリコン」などの概念を「小児性愛」と同一視したうえでレッテルばりし,まとめて気もちのわるいもの」として えがき,とおざけられるべき対象に したてたのではなかったか。小田晋の陳腐な いい分は,そのレッテルばり方式のバッシングが かれが おもったほど効果をあげなかったことへの いらだちだと解釈すれば よく わかる。しかし小田が満足していないとしても オタクは じゅうぶんに偏見にさらされることになったし,いまでも おおくの ひとが「ロリコン」と「小児性愛者」との区別も つかないでいるというのが実情ではないか。
  昨今,「オタク文化」が普及したといわれているが,そこで社会的に認知され普及した「オタク文化」なるもののなかに小児性愛の要素は まったく みあたらない。たしかに「エロゲー」のようなものが ひろまっている現象は「オタク」と「ロリコン」との共通項があることをしめしているが,逆に10代後半以後の少女を性的対象とする「ロリコン」と第二次性徴期をむかえていない幼女や小児に対する関心をしめす「小児性愛」との共通項は ほとんどないのである。
  速水は『恋愛できない男たち』のなかで,ロリコンをおとなの女性とコミュニケーションが満足にできない男性の慢性的な精神疾患として とらえたのではなかったか。それなら性的嗜好そのものの異常ではなく,男性のがわの気おくれや自信のなさ,かたるべき内容の欠如に原因があるのだから,解決策は異性間のコミュニケーションの創出や性役割イデオロギーのみなおしに もとめられるべきであり,性的嗜好そのものが社会的不適応をおこさざるをえない小児性愛とは区別するべきだ。わたしには速水のコメントが,速水自身が,区別しなければならないものを同一視して かたり,まとめて排除しようとする がわに加担し,最終的には自分が提起してきた問題の解決をとおざけているように おもえてならない。
  「週刊朝日」の おなじ記事では精神科医の福島章氏が つぎのように いっている。「以前は大人とうまく交際できないから子供に向かう代償性の小児性愛が多かったが,最近は幼少期の虐待経験などから少女や少年に本来的に性衝動を覚える真性の小児性愛が,犯罪者に増えてきたと感じる。」速水が かつて「ロリコン」の原因について指摘したことは,ここでの「代償性の小児性愛」には あてはまる[2]。宮崎被告が代償性だったのか真性だったのかは わからないし,「ロリコン」をうみだす構造の一部が小児性愛をも うみだしているという面は あるかもしれない。しかし,いまの問題の もっとも深刻な面は そこではないのだ。
  「オタク文化」が社会的に認知されることにともなって「ロリコン」が ふえたとしても,それは「ロリコン」が小児性愛に むかわずにすむ領域が ふえたと解釈するほうが あたっているだろう。なぜなら,「ロリコン」と むすびつきのある「幼児性愛」は あくまで「代償型」の それであり,「オタク文化」は そのもの自体が もう ひとつの健全な「代償」であるのだから 健全な「オタク文化」が ふえ,そこに自己実現の機会が うまれれば うまれるほど,犯罪にむすびつく「幼児性愛」に代償をもとめる必要は なくなっていくはずだからである。そして,だんだんと なんとなくではあれ大衆的にも そういう関係が理解されてきたからこそ,一時は さげすまれてきた「オタク文化」が みとめられるように なってきたと かんがえるべきでないか。「オタク文化」は,「ロリコン」を小児性愛に むかわせないようにするためにも むしろ よいことであるはずだ。問題は,「オタク」とは関係ないところで ひそかに ふえている「真性」の小児性愛である。それは かりに宮崎被告が そうであったのだとしても,宮崎被告の もっとも「オタク」的ではない部分において生起していた性的嗜好であると かんがえるべきであろう。宮崎被告は「オタク」だったので幼女を誘拐し ころしたのではなく,「真性」の幼児性愛者だったのであれば「オタク」ではなかったから,また,「代償性」の幼児性愛者だったのであれば「オタク」に なれなかったから,そうした犯罪をおかしてしまったのである。後者であったなら,いまのように「オタク」として活躍できる領域が ひろがっていれば,犯罪に いたらずに すんだのではないか。いずれにせよ,ただの「オタク」なら そんな そんな犯罪を実行できたりは しなかっただろう。幼女連続誘拐殺人事件の犯罪そのものは,まったく「オタク」的な ものではなく,むしろ即物的欲動的なものであった。

[1]  実際には小児や幼児を性愛の対象にしたポルノの規制はきびしく おこな
  われるようになったし,オタクが幼児ポルノの流通や消費に かかわって
  きていたとか,きているという事実は報告されていない。こういうイデオ
  ローグが ことばのうらでいいたいことは,幼児ポルノを規制することでは
  なく,「自由」を規制することじたいを「自由」に おこないたいという
  権力者の願望であることは あきらかだ。

[2]  わたし自身は,ロリコンの原因については,フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』による説明(編集合戦などの理由で編集保護中)のうち,つぎの
  説明に共感する。
    心のある部分が子供時代のどこかの段階に固着したり、幼少時代への回帰
    願望から、その人間の(ある部分の)精神年齢と同じくらいの少女に惹か
    れるのではないか
  また,森岡正博『感じない男』(ちくま新書)にあるように,ロリコンとマザコン
  とは同類ではなく,むしろ逆のベクトルをむいており,母親から はなれようと
  する こころの うごきがロリコンの形成に かかわっているという分析にも体験的
  に同意できるところがある。
   なお「ロリコン」の定義などについては 圓田浩二『援交少女とロリコン男』
  (洋泉社の新書)を参照。

2006年1月31日(火) 「責任」は“とる”もの

 小泉首相が,昨年の総選挙のときにライブドア社長であった堀江候補を応援したことに関連して「責任は…あまんじてうける」と発言していた。
 「責任」というのは みずから“とる”ものなのであって“うける”ものではないのではないか。
 “うける”というのは,「非難をうける」「批判をうける」「糾弾をうける」「おしかりをうける」というふうに つかう。これらは 他者から自分にむけて やってくるものだ。それらに対して みずからが どのように応答するのか…その こたえとなるものが「責任」ではないのか。ちなみに「レスポンサビリティ」にしても「アカウンタビリティ」にしても,その根本には「応答」という意味が ふくまれている。
 “うける”だけでは責任をはたしたことにはならない。ひらきなおっているのと なにも かわらない。
 ちなみに「罰」も“うける”という。罰をうけるのは 形式的には罪をおかしたからだが,内容的には そのひとが もはや みずから責任をはたすことが できないか,禁じられているからである。罰をうけることは不名誉なことだ。だが,責任をとることは,ほんらい立派なことのはずだ。

 だから,罰をうけたということは,責任をはたすことの かわりには ならない。それは,辞職したり自殺したからといって,それ自体が責任をはたすことは無縁のことであるのと同様だ。

 非難をあびたということをもって,責任をとったかのような かおをするのは,まちがっている。そういう いいのがれをする ひとには,もっと非難をあびせなければならないはずだ。ほんとうに責任をとるひとなら,非難をあびるまえに なにかをしようとするだろう。

 「あまんじてうける」というのは応答性の否定である。応答性の否定は,責任をとることの否定である。

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