日記

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2005年7月1日(金) おおさか滞在

 おおさかにきました。
 8日まで滞在します。
 勤務先の韓国の大学の日本語科の学生が夏季研修でおおさかにきていて、
そのひとたちの授業をするためです。

 ふだん オクテな学生も、日本にきたら かえって ひらきなおったのか
たくさん日本語で はなしてくれます。

 いつも いっしょにいる韓国人だけのメンバーで研修をするのでも
環境が かわることで けっこう効果があるものだと おもいました。

 わたしが担当するのは1週間だけですが、このあと 1か月後に帰国するときには
どうなっているか たのしみです。

2005年7月17日(日) ほんの すこしの想像力を

 わたしは中学生のとき ある発見をした。

 和数詞の「ひと」と「ふた」,「み」と「む」,「よ」と「や」は 子音が一致するという発見だった。わたしは この発見を中学校の卒業文集に かいた記憶があるので,ひょっとしたら どこかで その証拠をもっている ひとが いるかもしれない。

 もちろん そんなことは わたしが「発見」するまえから 国語学を勉強している ひとなら あらためて指摘するまでもないほどの常識に属するようなことだったろう。学問の世界では あまりにも あきらかなことなので あえて指摘する ひとも いないというようなことが まま あるものである。この「発見」は それ単独のものとしては たいした価値があるものではない。しかし,もし なぜ このように倍数の関係になる数詞が母音の交替によって あらわされているのかという なぞを 日本語の系統論に からめて説明することが できれば,そのときには すこしは世間をさわがすくらいの発見と いわれることになるのかもしれない。

 ところで,ここで のべたことを あらためて「発見」などという ことばをつかって いうのには わけがある。すくなくとも中学生の わたしにとっては それは ちょっと びっくりするくらいの発見だった。そして これをよんでいる おおくの ひとにとっても はじめて きいた ひとは きっと すこし おどろいたのではないだろうか。逆にいえば,こんな単純な みたままの事実でも いわれないと気がつかないということは けっこう あるものである。もし日本語がローマ字がきされていれば もっと 気がつきやすいことなのかもしれないが,かなや漢字で かかれることに なれている わたしたちは意外と こういうことに 気がつきにくいものである。

 しかし,気がつきにくい もう ひとつの理由は,それが あまりにも あたりまえすぎる日常の語彙だからということも あるだろう。わたしたちは あまりにも基本的な語彙について,その語源をたどろうとか,なぜ そのような語形なのかということをかんがえることをしない。ふつう,語源が問題になるのは 複合語か複合によって うまれた語っぽくみえる語であることが ほとんどである。わたしたちが日常「語源」として かたっていることは実のところ語源論というよりは語構成と音韻変化に関する議論に ちかいものであることが おおい。「む(6)」とか「や(8)」については なぜ そう よばれるのかと かんがえるだけの きっかけに とぼしいということが あるのだろう。

 そこで本題なのだけれども,最近 石原慎太郎という東京都知事をしている人物が「フランス語は かずも かぞえられない ことばだ」という発言をしたと報じられている。その発言に フランス語をおしえている教師が抗議すると「抗議はフランス政府にしろ」と いったそうだから,まったく 自分の発言を訂正するつもりも修正するつもりも ないようである。

 フランス語をはなしている ひとが かずをかぞえられないとか,計算が できないというような事実はないし,フランス語をはなしていて計算が得意な ひとが計算するときだけは ほかの言語で かずをかんがえているという はなしも きかないから この石原慎太郎という人物が いっていることは 文字どおりの意味にとるかぎりは まったくの でたらめであることは はっきりしている。でも なんでも石原慎太郎という人物は りっぱな小説も かく ひとらしいから,ほんとうに いいたいことは「かずを かぞえられるかどうか」ではなくて「かずをかぞえるために合理的な数詞の語形の体系をととのえているかどうか」なのだろう。そうでなければ でたらめすぎる。

 ほんとうは都知事をしている人物には ことばを文字どおりの意味にとったときに でたらめになるような いいかたは,別に いいたいことが あるなしに かかわらず してもらいたくは ないのだけれども,それでは ここで はなしが おわってしまうから いったん そのことは不問に付すことにしよう。で,問題はフランス語の数詞が「かずをかぞえるために合理的な数詞の語形の体系をととのえているかどうか」という点に うつる。

 たしかに ちょっとばかしフランス語を勉強したひとだと 数詞の体系に ぎょっとすることが あるのは たしかだ。よく とりあげられることだが「80」を「キャトルバン」と いうが,「キャトル」だけなら「4」で,「バン」だけなら「20」という意味になる。つまり「4×20=80」というリクツのようである。しかし 10進法で かずをかぞえているときに このような いいかたが まざると,「キャトルバン」の でだしの「キャトル」をきいたときに「4」だと おもったら「バン」が ついていて「80」だったというような錯覚をひきおこすかもしれない。フランス語の初学者には そういうことが わずらわしく感じられる。実際,わたしたちが ふつうに「フランス語」と おもっているフランスの国家語とは別に それと ちかい関係にある さまざまな言語(いわゆる方言をふくむ)のなかには「80」をよぶのに「8」をよぶ ことばの語形から派生させた かたちをつかい,「60」や「70」をよぶときとの整合性をとっている言語も あるらしい。初学者には そのほうが わかりやすいだろう。また,エスペラントのような人工言語をつくるのであれば だれでも そういう方式のほうをえらぶことだろう。

 しかし,これは あくまで成人になってからフランス語を学習する初学者の たちばにたって おもうことなのであって,うまれたときからフランス語をはなしている ひとたちは,いまになって「80」を「キャトルバン」とよぶのが不便だなどとは おもわないだろう。また,それを母語とする ひとたちどうしの あいだでは,まず,「80」と いっているのと「4・20」と 数字を ならべて よんでいるのとを区別できないということも ないだろう。実際の発音には テンポもあるし アクセントも あるのだから。たとえば日本語で「しち」というのは 実は日本語母語話者以外には とても ききとりにくいということをどれだけの日本人が意識しているかをかんがえてみれば わかる。「しち(7)」と「し・いち(4・1)」をつなげていうのとは実際の発音では 日本語話者以外には ほとんど おなじに きこえてしまう。だが 日本語母語話者から それを理由に日本語の数詞が不合理だという主張をきくことは まず ない。(くちで つたえるときには「しち」を意識して さけて「なな」と いったり「し」をさけて「よん」と いう ひとは いるけれども,「いち」のほうまで かえる ひとは ごく まれにしか いない。)また,体系だっていないことが不合理というのなら,日本語の ひづけの よびかたほど「不合理」なものはない。「ついたち」という数字とは関係のない語源をもつ ひから はじまり「ふつか」「みっか」と つづいたかとおもうと「とおか」のあとは いきなり「じゅういちにち」となり,「じゅうみっか」とは いわず「じゅうさんにち」と いうにもかかわらず「じゅうよんにち」ではなく「じゅうよっか」と いい,突然「はつか」と いったかとおもうと その つぎの ひは「にじゅういちにち」だという。日本語の初学者のたちばに たって かんがえてみれば ほとんど めちゃくちゃである。では,日本語は ひづけも かぞえられないような言語だということに なるのだろうか。いままでのところ,そのように日本語が「不合理」で あることについて石原慎太郎という ひとが日本政府に抗議したという はなしは きいたことがない。

 きっと いつもフランス語をつかっている ひとにとっては 「80」が「キャトルバン」であるのは あたりまえすぎることなので,それが「4×20=80」というようなリクツになっているなどということを かんがえることだって めったに ないに ちがいない。ただ 単に「キャトルバン」は数字の「80」の なまえであるに すぎない。ちょうど「むっつ」「やっつ」が「6」「8」に「つ」が ついたものに すぎないと 日本人が おもうように。そして,それらが「みっつ」「よっつ」と母音交替の関係にあるなどと意識することが まず ないのと おなじように。

 別に「むっつ」「やっつ」が「みっつ」「よっつ」と母音交替の関係にあって そこには倍数の関係があるということが ことばの由来に関係していようと いなかろうと わたしたちが計算をするのに なんの不都合もないのと おなじように,もともと「80」を「キャトルバン」と よんでいる ひとが計算をするのに,「キャトルバン」の語構成が どうなっているかというようなことは どうでもいいことだし,もちろん なんの不都合もないのである。あたりまえのことだ。ほんの すこしの想像力をはたらかせれば そんなことは すぐに わかるはずだ。

 ほとんどの日本人にとってはフランス語は まったく しらないか,ちょっとだけ勉強して おわってしまう言語である。だから,それについては無知であるか,そうでなければ初学者のたちばでしか ふれることがない。しかし,無知で批判するのが論外であるのは もちろん,初学者のたちばで おもうことが ネイティブスピーカーにとって おなじように感じられるはずだと おもいこむのは けんとうちがいである。ところが,異文化なれしていない日本人は けっこう こういうけんとうちがいに よわいところがある。韓国に すんでいると,韓国人も日本人に対して けっこう そういう けんとうちがいをしていて,たとえば 日本料理は あじが うすいので日本人は 料理に満足できないに ちがいないと おもっていたり,本気になって かわいそうだと おもう ひとまで いたりするが,まったくもって 余計なお世話である。日本人からみれば,韓国人は 素材の あじわいが わからない民族だから やたらと からくすれば いいと おもっている あじ音痴に みえるだけのことだ。

 もし,フランス語の心配をする余裕があるのなら,この小説家だという都知事をしている人物は みずからが その小説をかいている日本語の数詞の貧弱さをかえりみたほうが まだ ためになるのではないか。いまの日本語で おおきな かずが かぞえられるのは どうみても 中国語から十進法の数詞が はいってきた おかげである。固有の数詞は「ひと」から「とお」までで あとは あるのか ないのか よくわからない。「もも」とか「ち」とか「よろず」とかが あっても 「ふたもも」とか「みち」とか「いつよろず」などという いいかたは きいたことがないから かざりのようなものでしか なかったのだろう。どうも 日本列島にいた 先祖たちは中国語から十進法の数詞が はいってくるまで 「とお」以上は 「たくさん たくさん」としか かぞえられなかったのではないかと おもえてくる。ひごろ中国に対しては強硬かつ好戦的な姿勢をのぞかせている この石原慎太郎という人物は そのことをどう おもうのだろうか。いや,もしかしたら そんなことは よくよく承知していて,それだからこそ中国にコンプレックスをもっていて逆に虚勢をはりたがるのかもしれないのだが…。

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