日記

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2005年1月1日(土) あけましておめでとうございます

 ことしは この日記も もうすこし こまめに かきたいですね。

 たまたま紅白をみたんですが、さだまさしが反戦歌をうったのには びっくりしました。基本的に さだまさしは音楽は評価しても詩は評価しないというのが わたしの たちばだったんですが、ちょっと ドキっとさせられました。それをNHKの おおみそかの舞台で やったというのも ゲリラ的で よかった。

 ことしは 歴史的には さまざまな ふしめの年です。日韓国交40周年というまえに、まず いわゆる韓国保護条約100年だということをかみしめて、しっかりと よのなかをみつめていきたいと おもいます。

2005年1月9日(日) 犯罪報道

 『安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学』河合幹雄 岩波書店

をすこしずつ よんでいる。統計を冷静に分析したら凶悪犯罪が急増しているとは
いえないということが かかれている。

 あいかわらずテレビでは凶悪犯罪の容疑者が つかまると その人物の「異常性」
ばかりが くりかえし強調されるけれども、ひとつひとつのことをあらためて
かんがえたら、犯罪そのものが凶悪であったという以上に 容疑者が 信じられない
ほど異常であるといえる要素は ないように おもう。ひとつひとつのエピソードに
こめられた「異常性」は、犯行と きりはなして かんがえれば、テレビをみている
フツーのひとのなかにも あふれているものではないか。

 結局のところ、視聴者も 犯人の異常者あつかいを支持しているから、ますます
ばんぐみも それを強調する方向にいってしまう。そして、社会全体の雰囲気は
ますます治安がわるくなっているという認識のほうへと誘導され、そのことが
現実に社会不安をひきおこし、ほんとうに治安をわるくしかねなくしているように
おもえてならない。

 いままで日本では加害者の人権が優先されすぎて被害者の人権が ないがしろに
されてきたという主張が あふれている。そうかもしれない。しかし、テレビが
いうように そんなに加害者の人権が尊重されてきたのか。たとえば いまだかつて
容疑者のいいぶんがじゅうぶんにマスコミで報道されたことが あっただろうか。
まもられなくてもいいことが「人権」の なで まもられている面も あるだろう。
しかし、わたしたちが事件をよく しるためにも まもられるべき容疑者の人権が
まもられないため、事件そのものが脚色され、ゆがめられて理解されていると
いうことも すくなくないように おもう。それに、「ともすれば加害者の人権
ばかりが強調され」と いっている ひとたちは、いま どのチャンネルの どの
ばんぐみをひねってみても 「被害者の人権」をたてに加害者に厳罰をくわえ、
監視をきびしくしろという こえばかりが強調されている現実をどう おもうのか。
いままでは反対だったから このくらいで均衡がとれるということなのだろうか。
そういうバランス感覚は、ほんとうにバランス感覚と いえるのだろうか。それでは
あまりに振幅が おおきすぎることにならないのか。ひとりくらいブレーキをかける
ひとが いてこそ、バランスが たもてるというものではないのか。

 極論に極論を対置するような やりかたの乱暴な議論が横行するなかで 確実に
わるくなるのは、いままでも無視されて、いまも無視された状態のままで放置されて
いる「人権」である。刑務所で国家公務員によって受刑者が ころされるというような
ことが おきても さして おおさわぎにならない この くにが「人権」を大切に
しすぎているなどということが いえるとは おもえない。「人権」を加害者の人権と
被害者の人権に分割し、どちらをとるかという問題設定をすることじたいが人権思想の
敗北を意味している。加害者/被害者をこえて問題を解決するゴールに設定されて
いなければならないものが人権ではなかったのか。

2005年1月9日(日) 犯罪報道におもう

 『安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学』河合幹雄 岩波書店

をすこしずつ よんでいる。統計を冷静に分析したら凶悪犯罪が急増しているとは いえないということが かかれている。

 あいかわらずテレビでは凶悪犯罪の容疑者が つかまると その人物の「異常性」ばかりが くりかえし強調されるけれども、ひとつひとつのことをあらためて かんがえたら、犯罪そのものが凶悪であったという以上に 容疑者が 信じられないほど異常であるといえる要素は ないように おもう。ひとつひとつのエピソードに こめられた「異常性」は、犯行と きりはなして かんがえれば、テレビをみているフツーのひとのなかにも あふれているものではないか。

 結局のところ、視聴者も 犯人の異常者あつかいを支持しているから、ますます ばんぐみも それを強調する方向にいってしまう。そして、社会全体の雰囲気は ますます治安がわるくなっているという認識のほうへと誘導され、そのことが現実に社会不安をひきおこし、ほんとうに治安をわるくしかねなくしているように おもえてならない。

 いままで日本では加害者の人権が優先されすぎて被害者の人権が ないがしろにされてきたという主張が あふれている。そうかもしれない。しかし、テレビがいうように そんなに加害者の人権が尊重されてきたのか。たとえば いまだかつて容疑者のいいぶんがじゅうぶんにマスコミで報道されたことが あっただろうか。まもられなくてもいいことが「人権」の なで まもられている面も あるだろう。しかし、わたしたちが事件をよく しるためにも まもられるべき容疑者の人権が まもられないため、事件そのものが脚色され、ゆがめられて理解されているということも すくなくないように おもう。それに、「ともすれば加害者の人権ばかりが強調され」と いっている ひとたちは、いまでは どのチャンネルの どの ばんぐみをひねってみても 「被害者の人権」をたてに加害者に厳罰をくわえ、監視をきびしくしろという こえばかりが強調されている現実をどう おもうのか。いままでは反対だったから このくらいで均衡がとれるということなのだろうか。そういうバランス感覚は、ほんとうにバランス感覚と いえるのだろうか。それでは あまりに振幅が おおきすぎることにならないのか。ひとりくらいブレーキをかける ひとが いてこそ、バランスが たもてるというものではないのか。

 極論に極論を対置するような やりかたの乱暴な議論が横行するなかで 確実に わるくなるのは、いままでも無視されて、いまも無視された状態のままで放置されている「人権」である。刑務所で国家公務員によって受刑者が ころされるというようなことが おきても さして おおさわぎにならない この くにが「人権」を大切にしすぎているなどということが いえるとは おもえない。「人権」を加害者の人権と被害者の人権に分割し、どちらをとるかという問題設定をすることじたいが人権思想の敗北を意味している。加害者/被害者をこえて問題を解決するゴールに設定されていなければならないものが人権ではなかったのか。

2005年1月21日(金) さんぽと富士山

 自宅のまわりを散歩した。
 もともとはジョギングコースをつくって はしっていたのだけれども、ちょっと あしをいためたので、きょうは 写真をとりながら あるいてみた。

 自宅のある市には、戦時中に軍用の飛行機工場があって、戦後は米軍に接収されていた地域が返還された場所がある。いまは市役所や市の施設、都立高校などが たっているのだけれども、その中央に市で いちばん おおきい公園がある。

 その公園の北東のはしに たつと、対角線上に富士山がみえた。東京都にある自宅のある市で、じめんに あしをつけて富士山をみたのは、はじめてではないかと おもって、すこし感動した。

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