韓国人日本語学習者の音韻認識への日本語ハングル表記による影響
昌信大学 秋月 康夫
1 ハングル表記と学習者の仮想的な音韻体系
音声音韻学の分野では おおくの研究が つみかさねられており,こまかい点について諸説があるとしても,韓国における日本語教育に応用するという目的に こたえるための十分な知見が えられていると いえるだろう。
しかし,実際の日本語教育の現場での発音の指導においては,かならずしも音声音韻学の常識が十分に いかされているとは いいがたい状況が ある。教材の かずは 年々ふえていても,発音教育に関するものは わずかであり,一般の日本語教科書においても発音のために つけられた解説は,近年 内容が改善されたとはいえ,学習者にとって わかりやすいものに なっているとは いえない。このような状況で,学習者は どのようにして日本語の音韻を認識しているのだろうか。
いうまでもなく,音韻組織の ことなる言語に おいて,Aの言語の音素とBの言語の音素が音声のレベルで一致するという保証はない。しかし母語でない言語の音声をききとり,再現するということは容易なことではないから,非母語の学習においては 母語の音素を学習言語の音素に あてはめて理解しようとするのは しかたのないところであろう。そして,このような「あてはめ」の規則は,おおくの場合,文字と文字との対応として表現される。すなわち,韓国語話者の日本語学習においては,かな文字の発音にハングルをあてはめるというところから はじまるわけである。実際,おおくの初級用の教科書が,最初の数ページをひらがなの解説のために つかい,それぞれの ひらがなの発音のしかたをハングルをつかって説明している。そして,それが発音に関する最初で最後の説明であることも めずらしくない。
このようにして,学習者の あたまのなかには 現実の日本語の音声とは別に,ハングルに翻訳された仮想的な日本語の音韻体系が形成されるものと推測される。この仮想的な音韻体系が どのようなものであるかを把握すれば,学習者の発音の指導を効果的に おこなうことが できるだろう。
2 日本語ハングル表記の実例
2-1 日本語ハングル表記法
1986年に当時の韓国文教部が告示した「外来語表記法」では,日本語の かなとハングルとの対照表がしめされている。この表は,105の カタカナで かかれた音節について,それぞれ語頭のばあいと語中・語尾のばあいに わけて,対応するハングルをさだめ,「ン」については「ㄴ」を対応させた。同告示では また,本文で日本語の促音と長音の表記についても さだめ,促音には받침の「ㅅ」を対応させ,長音は表記しないこととした。対照表では日本語の無声子音から はじまる音節について原則として語頭では平音を,語中・語尾では激音を対応させているが,パ行音に関してのみは語頭,語中・語尾をとわず激音を対応させている。また,「ス」「ツ」「ズ」「ヅ」に かぎり,母音を「ㅡ」に,その結果「ザ」と「ジャ」,「ゾ」と「ジョ」が それぞれ ともに「자」「조」と かかれるのに対して「ズ」と「ジュ」は「즈」と「주」とに区別されることとなった。また,「ツ」は語頭と語中・語尾の区別なく「쓰」に対応させられた。
2-2 日本語教科書の発音解説
1990年代までの おおくの日本語学習教科書が,かなの発音については,日本における日本語のヘボン式ローマ字表記をつけることで 解説にかえていた。その結果,学習者の おおくは英語学習のときの知識から日本語の発音を推測するしかなかった。ところで,韓国における英語教育では,英語の無声子音を韓国語の激音の子音に対応させ,有声子音を平音の子音に対応させることが一般的に おこなわれている。これは前記の「外来語表記法」においても同様である。そのため,日本語学習者の おおくが,日本語の無声子音で はじまる音節を激音で発音し,それらが濁音となったときには平音で発音すると理解するようになった。
近年,韓国で出版された入門者むけの おおくの日本語の教科書は,この点に関して おおきな改善が みられる。まず,無声子音で はじまる音節の かなの発音を,語頭のときと語中・語尾の ときに わけて説明するようになった。つぎに,語中・語尾のときの 無声子音で はじまる音節の発音を,激音ではなく濃音に対応させて説明するようになった。3つめに,濁音の発音について,語中・語尾のものは韓国語の平音に対応させ,語頭のときには 韓国語話者には困難な発音であるということが明記されたうえで,対処法が かかれるようになった。また,有声/無声の問題以外にも,全体として「ん」や「っ」の発音について詳細かつ比較的正確に かかれるように なってきている。
3 日本語ハングル表記の問題点
学習者用の教科書では子音の有声/無声などの問題について改善が なされたものの,日本語のハングル表記が 日本語の発音を歪曲して認識させる危険は まだ ある。まず,このような発音解説が かな文字の発音の しかたとして解説されていることである。この方法だと,日本語の表記法の規則により 実際の発音と表記が ずれている ばあいに正確な発音が えられないことになる。つぎに,語頭と語中・語尾の発音を区別して説明するのは よいとしても,両者の関係が つかめないままでは どうして そのように かくのかが理解されないままである。また,「ただしい発音」を強調するあまり,不必要な説明をして学習者をかえって混乱させてしまうような説明も散見される。音素は自由異音と条件異音の あつまりとして実現される集合的な存在なのであるから,あまりに厳密な発音の記述をして それのみが「ただしい発音」であるとすると かえって ききとりに障害をおこす。3つめに,ハングルで区別しやすい発音について詳細な説明が あるのに くらべて,ハングルで かきわけられない おとに対する説明が不足しがちだという問題がある。発音の説明にハングルを利用するのは,ハングルに対応させて発音しても支障がないものと,そうでないものとを区別するというところに最大の利点が あるのではなかったか。
4 その他の音韻認識の混乱
この10年間で,わかい世代の学習者の発音は めざましく向上していることを実感する。清濁や「つ」,ガ行鼻濁音の発音などは,適切な指導をすれば 発声も,ききとりも かなり正確に できる学生が ふえてきている。一方,最近の試験やアンケート調査の結果から,促音に関する音韻認識に,日本語話者と おおきな ずれが あることが わかった。
外来語をのぞき,日本語では,促音のあとに濁音は こない。そのように指導しているにも かかわらず,かきとりをおこなうと,かなりの かずの学習者が,「失敗」を「しっばい」などと かく。これは,「しっぱい」の おとを「십빠이」というように かなり正確に ききとっていても,ハングルでの表記を「십바이」と かんがえるからではないか。このように かけば,実際は濃音で発音していても表記上は語中の「바」となるから 日本語では濁音に対応すると かんがえるようである。
5 改善策
日本語の無声子音で はじまる音節が,語頭と語中・語尾とで ちがって きこえるという問題は,韓国語ローマ字表記法をめぐっての議論を引用し,つぎのような例をしめすことで わかりやすく説明できる。「푸산」「釜山」「Busan」と 3つの文字列を文字種をかえて かき,それぞれの発音が3つとも ちがうこと,韓国語話者は あとの2つを同一視し,最初のものを区別するが,英語話者は まえの2つを同一視し,最後のものを区別するということ,そのため韓国語話者と英語話者が ただしいと おもう発音についての認識が ずれて しまうことを説明するのである。
また,促音の発音に関しては,[시- -빠이]ではなくて,[십- -빠이]あるいは[십- -파이]で あることをつよく いう必要が あるだろう。
参考文献 『한글 맞춤법 강의』 이희승 안병희 1989 신구문화사
「Ⅲ.음운」 고수만 1998 『新日本學의 理解』 시사일본어사
『문법』 서울 대학교 사범 대학 국어 교육 연구소 1996 교육부
『처음 일본어 쉽게 넘기』 모세종 2001 시사일본어사
『동경발음 일주일에 끝내기』 김조웅 尾崎達治 1999 시사일본어사
『発音 改訂版』 今田滋子 1989 国際交流基金
(当日配布レジュメ)【調査報告】
韓国人日本語学習者の音韻認識への日本語ハングル表記による影響
昌信大学 秋月 康夫
1 はじめに
今回の発表に先立ち,韓国人日本語学習者の集団と,日本語を学習したことのない韓国人学生の集団に対して,日本語音声の認識に関する調査を行った。
本レジュメは,この調査の動機となる問題意識と,調査の目的・方法,およびその結果と解釈について簡単に報告するものである。調査そのものは大がかりなものではなく,方法にも問題点があり,対象者数も少ないものではあるが,筆者は今までのところ同様の調査がされた事例をみたことがなく,今後の研究のための指針を得るための予備研究としては意味のあるものであると考えている。
2 調査の動機となる問題意識
韓国語を母語とする日本語学習者が日本語の発音を認識するうえで,ハングルで書き分けられる韓国語の音素を日本語の音素に対応させるということを避けるのはむずかしい。しかし,無理に対応させようとすれば日本語の発音の理解が歪んでしまうことも当然の結果である。
そこで,まず,学習者が接触する場面で現実に行われている日本語のハングル表記について考察し,それが学習者に与える影響を予想し,いくつかの問題点をとりだしてみることにする。今回の調査は,こうして取りだされた問題点について,それが実際に学習者の意識のなかに存在しているかどうかを確認しようとするこころみとして行うものである。
2-1 清濁の問題
○ 1.푸산 |
----------| 5.PUSAN
| 2.釜山 |
6.부산 |----------
| 3.BUSAN
○ 『고등학교 문법』(교육부)
● 数年前の大手「学院」の教科書 / 「국어의 로마 자 표기법」
「외래어 표기법」(英語/日本語)/最近の教科書
2-2 オ列長音の問題
2-3 鼻母音の問題
○ 『동경발음 일주일에 끝내기』(시사일본어사)
● 「외래어 표기법」/「学院」の教科書/最近の教科書
2-4 促音の問題
● 「외래어 표기법」/最近の教科書
2-5 鼻濁音の問題
3 調査の目的と方法
上記のような日本語のハングル表記が学習者に与えると予想される影響について,その実態がどうであるかをしらべるのが,今回の調査の目的である。
この目的を達成するため,韓国の専門大学で,韓国語を母語とする学生のなかで,日本語を専攻する18名と,日本語を学習した経験のない20名に対し,別々に同じテープを聞いてもらい,そのテープで流れる単語を,その発音にもっとも近いと考えるハングルで書き取ってもらった。テープの単語は,前半が,ひらがなで書かれた無意味語を日本語母語話者がよみあげたもの,後半が,日本語の基礎的な単語を日本語母語話者がよみあげたもので,それぞれ5題ずつある。無意味語は,後半の単語と音の配列をにせて作ったものであるが,5題のなかでの配列は変えてある。
この調査により,日本語学習者と,そうでない者との日本語の音韻の認識のしかたに差があるかどうかをみようとした。また,日本語学習者が,しっている単語を書き取るときと,そうでないとで差があるかどうかをみようとした。
4 調査結果と分析
調査した単語は以下のとおりである。単語の前の番号は,調査したときにテープで流した順番を表している。左が後半の基礎単語で,右がそれに対応する無意味語である。
7 だいがく - 5 でうごか (清濁)
6 ひこうき - 2 ちこうけ (オ列長音)
9 せんえん - 1 まんあん (鼻母音)
8 はっぽん - 3 さっぺん (促音)
10 ばんごはん - 4 だんがへん (鼻濁音)
調査結果は,付表のとおりである。この結果から,つぎのような分析ができる。
4-1 清濁
それぞれの語の最後の音節(清音)がどう表記されているかをまとめてみると,以下のようになる。
だいがく でうごか
日本語科 18 他学科 20 日本語科 18 他学科 20
ㄱ 3 1 3 4
ㄲ 7 14 7 14
ㅋ 8 5 7 2
その他 0 0 1 0
非日本語学習者のグループがほとんど濃音で聞き取っているところを,日本語学習者のグループでは激音で表記している人がおおいことが目立つ。
4-2 オ列長音
オ列長音がどう表記されているかをまとめてみると,以下のようになる。
ひこうき ちこうけ
日本語科 18 他学科 20 日本語科 18 他学科 20
ou 8 3 9 0
o / oo 9 17 9 20
その他 1 0 0 0
非日本語学習者のグループがほとんど[o]またはその長音で聞き取っているところを,日本語学習者のグループでは[ou]と表記している人がおおいことが目立つ。
4-3 鼻母音
前後を同一の母音にはさまれた「ん」がどう表記されているかをまとめてみると,以下のようになる。
せんえん まんあん
日本語科 18 他学科 20 日本語科 18 他学科 20
前後の母音 2 14 0 5
ㄴ 4 1 4 0
누ㄴ / 누ㄹ 0 0 2 1
ㄹㅎ 0 0 1 0
ㅇ 10 3 9 6
으 / 응 0 1 1 3
흐 / 하 1 0 0 3
その他 1 1 0 2
「せんえん」に関しては非日本語学習者のグループには[e]で書き取っている人が多いのに,日本語学習者のグループでは極端に少ない。無意味語は鼻激音で表記している人がおおいことが目立つ。「まんあん」に関しても,非日本語学習者のグループには[아]や[으]で書きとっている人が相当数いるが,日本語学習者のグループにはいない。
4-4 促音
促音と,それに後続するパ行音がどう表記されているかをまとめてみると,以下のようになる。
はっぽん さっぺん
日本語科 18 他学科 20 日本語科 18 他学科 20
ㄷㅃ 7 2 0 0
ㅁㅂ 0 0 3 1
ㅁㅃ 3 1 7 4
ㅁㅍ 0 0 1 0
ㅃ 7 15 3 8
ㅍ 0 0 0 1
その他 0 2 4 6
非日本語学習者のグループにくらべ,日本語学習者のグループでは[ㅃ]で書き取っている人が少ない。
4-5 鼻濁音
「ん」と,それに続くガ行音がどう表記されているかをまとめてみると,以下のようになる。
ばんごはん だんがへん
日本語科 18 他学科 20 日本語科 18 他学科 20
ㄴ 0 0 4 0
ㄴㄱ 4 0 2 0
ㅇ 0 0 8 11
ㅇㄱ 12 14 0 0
ㅇㅎ 1 0 1 3
ㅇ응 0 0 1 0
으 / 우 0 3 0 1
その他 1 3 2 5
「ばんごはん」と無意味語の「だんがへん」とでは,鼻濁音化の度合いに違いがあることが観察できるが,それとは別に日本語学習者のグループでは「ん」の部分を「ㄴ」で書き取ろうとする傾向のある人が数名いることがわかる。
5 おわりに
今回の調査は,被験者数も少なく,資料にもさまざまな問題があった。テープの音質や,ふきこみのときの速度によって,結果に大きな影響がでることも調査結果からうかがわれる。
しかし,非常に顕著な傾向として現れてきたこととして,日本語学習者のグループとそうでないグループとでは,少数解答の例がほとんど重ならないということがわかった。また,今回調査した発音に関しては,概して,日本語を学習していないグループのほうが音声学的に近い発音のつづりで書き取っていることがわかる。これは,日本語学習者のグループが実際の発音よりも日本語のつづりの知識に影響され,実際とは異なった音で発音されているものと思い込んで聞き取っているという可能性をうかがわせるものである。
これは,つづり字を正確に書くためには不利とはいえないことであるかもしれないが,自分が発話する時の発音に問題をひきおこす危険がある。また,日本語話者が未知の語を発音したときに,その発音をうまく聞き取れないことの原因にもなると思われる。引き続き,調査の方法を精密化して研究をすすめたい。
◆参考文献
(事前配布された資料を参照されたい。)
2003.5.24 (あきづき・やすお)