(1999年1月16日から)

日本語授業日記のコーナー

以下の用語には注釈があります。 以下の資料をはりつけました。

表題リスト  

 過去の日記
1.ハンガナ
2.て形
3.結果の残存


1998.6.6 文通
1998.6.13 文通−その2
1998.6.20 九州大学箱崎キャンパス
1998.6.21 教育学会の研修会
1998.6.23 「東海地方」
1998.6.24 でかけるっていっていましたから
1998.6.25 「なるべく」と「できるだけ」
1998.6.26 ほんとうはさびしがっているんです
 
 過去の日記リスト
 
 最新の授業日記


注意) 文中の【  】にはさまれた部分は、ハングルの発音を表すためのハンガナです。


1998.6.26   ほんとうは さびしがっているんです

  午前中にやっている2級対策のクラス。問題のおおい『中級から学ぶ日本語』の第3課の本文をおしえた。

  わたしは、この教材のこの部分については、掲示板『日本語教科書・書きたい放題』で、つぎのようにかいている。(
http://www.chuwol.com/bbs1/667999267578125.html

この、『中級から学ぶ日本語』の第3課の「〜がる」のつかいかたは、中級にはいりたての教材としては これ以上ないほど不適切だという わたしの意見はいまもかわらないが、この不適切さは、その後段にでてくる〜そう(様態)の用例にまでおよんでいる。

という 部分である。こちらこそ、「うれしがる」と かくべきところである。

  しかし、この文章がまちがっているのではない。外観から「さびしそう」と判断したことを一歩すすめて、さびしくないふりをしていたこと自体が実は「さびしがって」いたんだなと表現すること、あきらかに「うれしがって」いるのだけれど、それをさとられないようにしている母親をおもんぱかって あえて「うれしそう」と かくところに、この本文の筆者に想定されている こどもの面目躍如たるところが あるのだから。

  唯一の問題は、こんな複雑な文を、「〜そう」と「〜がる」の導入につかう無神経さだろう。

  その教材をそのままつかったわたしも 無神経だけれども、今回の受講生は文法的な能力はもっとうえだったので、以上の解釈を理解させてあげることができたのである。それだから、あえて この部分もつかうことにしたのであった。 top メール 感想 投稿 


1998.6.25   「なるべく」と「できるだけ」

  『中級から学ぶ日本語』を、午前中にやっている2級対策のクラスでつかっている。いまのところ、個人指導だから、すきなように この本をつかうことができる。

  ところで、第3課の「新しい言葉」に、「できるだけ」というのがある。
  日本で この本をつかって おしえていたときは、「新しい言葉」で ここが あたったら、その教師は「なるべく」との ちがいをおしえることになっていた。 しかし、あらためて おもうのだけれども、「できるだけ」「なるべく」との ちがいが そんなに重要なことだろうか。そもそも、どちらか一方がつかえてもう一方をつかうと誤文になるような ちがいが あるのだろうか。あるいは、両者で意味にちがいがでるようなことが あるのだろうか。

   「なるべく」には、おおきく2種類のつかいかたがあって、「能力の限界」「合理的判断の範囲内での選択」とでも なづけたらいいのだろうけれども、両者とも「できるだけ」におきかえられると、わたしはおもう。わたし自身が そうおもっているのに、なにかの“辞典などから微細なちがいを みちびきだしてきて 説明するのが、日本語教師の資質のようにおもっている教師がいることに わたしは反感をおぼえる。だが、日本語学校では えてして ちがいをおしえる教師にくらべて、「両者のちがいよりも、両者がほとんどの場合におきかえられることを意識させたほうが 有益だ」とかんがえる教師は無能だとみなされがちだから、「おしえなくてもいい」というのは勇気が必要だ。

  しかし、“ちがい”というものは、おおくのばあい、かさなりあうなかでの“ずれ”であり、条件づけられたなかで はじめて意識される区別である。これをへんに誇張して、

というような 整理をしてはいけないとおもう。以前に、ある韓国人の日本語教師に

といったら、

と 「訂正」されたことがある。“ちがい”ばかりを強調すると、この韓国人日本語教師の事例のようなことを増産しつづけてしまう結果にならないだろうか。 top メール 感想 投稿 


1998.6.24   でかけるって いっていましたから

  おなじく『文化初級日本語』の17課「天気予報」に、

という文がでてくる。これには、会話練習もついているのだが、どうも、この、

   みにいくと いっていました

の部分が うまく説明できない。なぜ動詞て形+いた]の形式がつかわれているのだろうか。この場所では、「みにいくと いいました」では、不自然である。そのことを 納得できるように説明するのが むずかしい。

  よくよくかんがえてみると、わからなくなってくるのだけれども、以前に書いた『結果の残存』や、5月29日の記事にかいたような教案と うまくつじつまのあう説明ができたらいいとおもって かんがえている。あるいは、それまでの かんがえのほうを 修正しなければいけないかもしれないのだけれども、いい かんがえのあるかたには、ぜひとも おしえていただきたい。

  ちなみに、てもとに教師用マニュアルもないので、作成者のコメントも 参照できないような状態なのだ。 top メール 感想 投稿 


1998.6.23   「東海地方」

  『文化初級日本語』の17課「天気予報」に、「東海地方」ということばがでてくる。

  なんのことはないのだが、韓国で教えていると、こういうことで ひっかかることがある。
しっているひとにとっては 常識なのだが、韓国では“日本海”のことを“東海
.ト~へ】”とよんでいる。だから、授業中に「日本海」ということばをつかうと、物議をかもすことがある。「東海地方」ということばも、くわしく説明していくと、その話題にふれざるをえなくなる。

  念のためにいうと、わたしは、こういう話題は 
さけるべきではないとおもっている。それに、韓国政府の主張をよく理解したうえで、なおかつ、日本では「日本海」とよんでいるということを、きちんとおしえるのが、日本語教師としての義務だともおもう。ただ、そのための準備をおこたらないことが 大切だといいたいのである。

  韓国政府と日本政府の間では、国際社会で、この海の英語の呼称をめぐっての つなひきがある。そのことと、それぞれのくにで、それぞれのことばで どのようによぶかということは、区別しておきたい。無論、日本で日本語で「日本海」とよぶことも「まちがいだ」と主張する韓国人もいる。そのことも しったうえで、わたしは それには同意できないという意見を もっている。必要以上にそのことをいわなくてもいいけれども、もし、必要があれば、そういう自分のかんがえを きちんとつたえられるようでありたいと おもっている。そうしないことが 不信をよぶのだ。ここまで この文章をよんできたかたは、
この問題で日本語教師は自分の立場をかくして中立をよそおうことが不可能であることを理解していただけるのではないだろうか。

  たとえば、韓国で出版されていた、ある日本語の教科書には、このへんの事情を苦慮してか、

などという文がのっていた。「東の海」とは、いかにも不自然な表現である。これでは、何をさしているのか、全然わからない。ことばにまつわる政治的な対立をさけることは、かえって ことばの教育をゆがめてしまうのである。

  さて、そういうわけで、「東海地方」は、「東海」側ではないことを わたしは説明した。これは、間接的に、

ということを説明していることにも なるのである。これも わたしの意見のおしつけなのかもしれないが、こちらとしては、これで日本人にも韓国人にも、自分の立場をはなれて かんがえる材料をあたえることになるのではないかと、自負しているのである。 top メール 感想 投稿 


1998.6.21   教育学会の研修会

  日本語教育学会の研修会は、九州大学の箱崎キャンパスで20日と21日にあったが、21日はほかの用事があって、欠席することになってしまった。本をかったり学習資料をもってかえる必要があって、福岡をあちこちあるきまわらなければならなかったので、出席していると時間がなくなってしまうとおもわれたのである。

  20日の研修会は、それなりにおもしろかったけれども、とても有益だと いうこともできない内容だった。

  音声のフォノグラムを操作しての、アクセント認識の研究など、音を加工する技術がパソコンなどでも簡単にできるようになっていることをかんがえると、いろいろな実験が手軽にできることを予感させるものだった。それだけに、発表された実験結果は、実験の手続きの段階での不備がめだち、要領をえないものになってしまったようだ。そのほかにも、たかだか30人ぐらいの被験者に対して、あまりに過剰な統計的処理をほどこした発表があった。学会というところでは 発表にいたる てつづきが重視されるのだろうけれども、つかわれている てつづきのわりには、実際にしていることが ちゃちだといったら いいすぎだろうか。それだけの てつづきで処理できる能力があるのに、それをいかせる規模で実験ができる環境が、日本語教育の場ではないというべきなのだろうか。 

  むしろ、わたしには、そういう 小規模な教室での研究であれば、もっと叙述的な たとえば実践報告のような発表のほうがにあっているし、科学的といえるかどうかは別にして、実際のところ ききにきているひとたちの 役にたつんじゃないかともおもうのだけれども、どうだろうか。 
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1998.6.20   九州大学箱崎キャンパス

  日本語教育学会の研修会のため、福岡に行った。

  ひさしぶりの福岡だったが、会場になっている九州大学の留学生センターというのは、はじめてである。それで、空港からタクシーにのって、門のまえでおりたのだが、結果的に目標のたてものとは正反対の位置だったらしい。けっこう ひろいキャンパスを 横断するはめに おちいった。

  目的地にたどりつくまでのあいだ、わたしは、5人ぐらいに、場所をたずねた。なんだか、ひさしぶりに日本にきて、日本語の授業みたいな会話をするのは、おかしかった。

  わたしの東京弁に、何人かの学生たちがこころなしか慎重にはなそうとしている様子がうかがわれた。そんなこと、福岡でくらしているあいだは、感じたことがなかったのだけれども。3人目にきいた相手は留学生だった。

と、ちゃんと日本語でいってくれたので、「だいじょうぶですよ。留学生センター、どこですか」と、いいなおすと、みぶりでおしえてくれた。それでも不安なのか、英語(これも かたことだった)をつけてくれたけど。でも、結果的にいうと、それまできいた日本人の学生たちは留学生センターを正確に認識していなかったので、この留学生の案内がいちばん 役にたったである。 top メール 感想 投稿 


1998.6.13   文通−その2

  商業高校の授業で、自分のホームページをつくったという受講生がいたので、日本の無料ホームページのサイトであるジオシティーの一画をかりて、アップロードした。

  URLは以下のとおり。

文通をしたがっているので、このサイトのペンパル募集のページなどから、メールをおくってあげてください。メールアドレスは、1004@geocities.co.jpです。 top メール 感想 投稿


1998.6.6   文通

  最後の時間に でてきている高校生が、文通をしたいという。ちょうど、『日本語BANKジャーナル』という教科書出版会社の だしている新聞に、大分県の高校生たちの文通希望の記事があったので、
紹介した。

  てがみの かきかたなどという、きまりごとがあって、日本語教育の教材にもなっているけれども、高校生のおんなのこが かいた てがみは そんなものを必要としないものだった。日本人でもそうだろう。
漫画があって、「!」を多用し、擬態語・擬声語をさしこんでみたりする、たのしいものだった。

  逆に、いったい、「拝啓」ではじまって「敬具」でおわる、たてがき自筆の伝統的なてがみの様式は、いったいなんなのだろうと、かんがえさせられてしまった。そういうものにこだわるひとたちは、なにを大切にしようとしているのだろうか。最近はビジネスレターでは もっと効率的な様式が開発されているし、個人てきな書簡では、そのひとたちの関係のありかたによって自由なかきかたがされている。やはりここでも、日本語教育がいちばん保守的なんじゃないだろうか。

  それにしても、『日本語BANKジャーナル』の日本語はひどい。印刷所の質の問題もあるだろうけれども、あてさきに指定されている「由香里が ゆりこ)」さんって、どこがあっていて、どこがまちがっているのだろう。
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