(1999年1月16日から)

日本語授業日記のコーナー

以下の用語には注釈があります。 以下の資料をはりつけました。

表題リスト  

 過去の日記
1.ハンガナ

1998.5.6 非分節的音素
1998.5.9 続・非分節的音素
1998.5.10 かりてきた麦袋
1998.5.12 猫がネズミを考える?
1998.5.14 タイタニック
1998.5.18 過剰訂正
1998.5.19 イングリッシュネーム
1998.5.20 「二つ目の角があります」
1998.5.22 ジャパニーズネーム
1998.5.27 集団授業で形容詞の導入
1998.5.29 結婚しています
1998.5.31
【パkせり】
 
 過去の日記リスト
 
 最新の授業日記


注意) 文中の【  】にはさまれた部分は、ハングルの発音を表すためのハンガナです。


1998.5.31   パkせり】

  これからかくことは、直接日本語の授業とは関係ないことだけれども、5月18日の『過剰訂正』にも少し関連した発音に関する話題なので、ここにかきます。

  
パkせり】という韓国人女子プロゴルファーが活躍している。世界中で有名な韓国人スポーツ選手は、このパkせり】のほかに、野茂をぬいてロサンジェルス・ドジャースのエースとなったパk`ちゃn(h).ぉ】にプロテニスの女子選手パk,そ~(h)ぃ】と、「朴」パk】氏が3人という状況になった。

  ところが、最近まで、海外での呼称は、パk`ちゃn(h).ぉ】は
“Park”で、パkせり】は“Pak”だった。韓国では、人名のローマ字表記は、本人がパスポートに記載した署名によってきまる(署名するときの表記の方法に厳格な規定がない)から、おなじ姓でも、ちがう表記になることがあるのだ。

  わたしは ながいあいだ、どうして
「朴」“Park”となるのか不思議だったが、英語よみしたときに、“a”の発音があ】にちかくなるように、“r”をそえたのだろうと きがついた。無論、「朴」“r”の発音には ならないのだけれども、それよりも母音の一致を優先させたのだろう。

  で、ここからは韓国語の知識が必要になる はなしだけれども、
パkせり】氏は、“Pak”という英語表記のため、`ぺk】とかぺk】とか`ぱk】と、韓国語話者の みみに きこえるような発音で よばれていたらしい。そのなかでも はじめのころ定着していたのが`ぺk】で、国際大会で優勝するようになって、はじめてパk】と おおやけに よんでもらえるようになったという。それまでは、野球選手のパk`ちゃn(h).ぉ】と おなじ姓だとは、よもや おもってもらえなかっただろうと、ある新聞はかいていた。

  最近、韓国の国語研究所が、あたらしいローマ字表記の思案を発表した。それによると、
「朴」パk】は“bak”と かくことになるらしい。と、いってもこれが採用されるかどうかはわからないが(わたしはたぶん、おくらいりになると おもっている。それに、これとは別に、南北朝鮮で合意したローマ字転写の方式も存在しているのである)。いまの韓国語のローマ字表記はあまりにも英語よみにあわせすぎていて、韓国語の音素に対応していないという欠点がある。さきほどの“Pak”にしても、フランス語やイタリア語になじんでいるひとなら、むしろその表記が本名に一番ちかかったといえるのである。“Park”などと、存在しない“r”をいれるのは、あまりに英語にすりよっているとも おもわれる。
  だが、ハングルの構成要素ひとつひとつにアルファベットをあてはめるような方法をとれば、逆に、ハングルがよめるひとだけしか発音できないローマ字になってしまうだろう。結局、だれの、どんな目的のためのローマ字なのかということをさきに議論しなくては、技術的に なにがただしいとはいえないのである。
ローマ字表記というのが、実は言語観にかかわる思想的な問題だということがおわかりいただけるだろうか。 top メール 感想 投稿


1998.5.29   結婚しています

  『文化初級日本語T』の11課。

  「すんでいます」「つとめています」「結婚しています」などの、ひとの立場・所属・資格をあらわすいいかたをおしえる。

  「勉強しています」も、

という文では、[途中]の意味ではなくて、これらと同様のつかいかたになる。

  このつかいかたの文法的な特徴は、[〜ます]の形では未来を、て形+います]の形で現在の状態をあらわし、過去では[〜ました]ではなく[て形+いました]にしなければならないことだろう。

  「結婚しています」については、まえに『結果の残存』という小論でふれたけれども、そのときのかんがえをすすめて、つぎのようにまとめることができるとおもう。

の、3つのパターンがあるということだ。かりに[純粋過去][現在完了][純粋現在]とよぶと、[純粋過去]は、現在と関係しない過去のはなし[現在完了]は、過去のある時点から現在までのうごきの有無[純粋現在]は、事態の成立時期を問題にせずに現在どうであるかだけをのべる形式だと定義できそうだ。

  では、

        あなたは、5年前、プロポーズされた こいびとと結婚しましたか。
     ……いいえ、かれとは結婚しませんでした。

では、

        かれはそのご、結婚しましたか。
     ……いいえ、まだ結婚していません。

では、

        それで、あなたはいま、結婚していますか。
     ……はい。別のひとと結婚しています。

があてはまるだろう。この分類をつかって、ほかの動詞の現象をあてはめて統一された説明ができないだろうかとかんがえている。いままでの日本語教育ではの区分が明確でなかったようにおもわれるので、これをおもいきって、別の概念だとしたところが、あたらしみなのだけれども。

  などと、授業中におもいついて、時間があまっていたので、すこしこれにちかい説明をしてみたのだけれども、反応はいまひとつだった。突然そんなことを説明されてもわからないのはあたりまえだけど。今度はよく準備してからおしえてみたい。
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1998.5.27   集団授業で形容詞の導入

  商業高校の課外活動としての授業。
  実力差の大きい集団なので、みんながたのしめるようなメニューを考えるのがむずかしい。なかには、ひらがなもよめない人がいる。

  それでも、毎週、おなじことばかりするわけにはいかないので、今日はそれまでのテーマの数字を離れて、形容詞を教えることにする。

  この前は「かえるの歌」を歌ったのだけれども、今日は、「ぞうさん」をみんなで歌ってみる。その前に、動物の絵をうらがえしてホワイトボードにはっておいて、番号をつけ、

などとあてていくゲームをして、動物の名前をおぼえてもらっておいた。

  とりあげる文型は、

である。形容詞の絵カードのうらにひらがなで形容詞を書いてコピーして配り、各自に切り取らせた。それで、形容詞を導入しながら、くちでいった形容詞のカードをあげさせたりして、記憶の確認をしていった。

  それから、体の部位の名前も必要である。顔、手、足などなど、指さしながらいわせる。いって、指をささせる。さて、やっと、文をつくる順番である。

しまった! 「かお」を教えるとき、目、耳、口、鼻を教えるのを忘れていた。……と、あわてているうちに、時間切れである。来週きたときに、今日のぶんをおぼえていてくれるのか、さだかではない。
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1998.5.22   ジャパニーズネーム

  夕方の初級のクラス。専門大学の観光科の女子学生である受講生が、日本語の名前がほしいと言う。

  そういえば、日本に留学にきている人でも、最近は、自分で日本式のニックネームを発明する韓国人が増えてきていることを思い出した。

  5月19日の記事のようなとまどいがあったのだけれども、本人は「蓮」のようなイメージの名前がほしいというので、「れんげ」ということばを教えてあげた。

  それを聞いていたとなりの男子学生が、自分の名前の漢字からイメージできるいい日本人の名前がないかときく。その人の名前の二つ目の漢字は「漢」であった。……これは、しばらく考えたふりをして、「やめたほうがいいと思いますよ」と、言った。それでも食い下がるから、

と、言わされるはめに陥ってしまった。で、やっぱり気持ちがすっきりしないので、なぜ、こういうことをするのに自分が気乗りしないのか、慎重に説明した。

  実は、その数日前に、日本で行われた元・女子勤労挺身隊と従軍慰安婦の方が提訴した裁判の最終弁論と判決に目をとおしていて、「慰安婦」にされた人の証言に、「韓国語が禁止された上に日本式の名前をつけられ、名乗らされた」というところがあって、急にそれが思い出されたのだ。だが、それだけではないかもしれない。外国人が日本式のニックネームをつけること自体に善悪があるとは思えない。だけれども、若い女性がそんなことをすると、なにか「源氏名」ということばを思い出させるものがあるのは、過去と言うよりは現在の日本文化にまつわる暗い影によるもののような気もする。
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1998.5.20   「二つ目の角があります」

  夕方のクラス。『文化初級日本語U』の19課で、道案内をするところがある。その道案内の項目だけ独立させて1時間の授業をした。

  『楽しく話そう』という、準拠教材があるので、それを利用したのだが、思っていたより順調に、ペアワークで待ち合わせの場所を説明したりしている。ところが、コミュニケーションに支障はない(
つまり、全部日本語で話していて、どこで待ち合わせをするのかちゃんと伝わっている)のだが、ふしぎな表現がくりかえし使われている。

ちょっと言えば直るとおもって、「これ、へんだと思いませんか」と言ってみたのだが、みんなけげんな顔をしている。ひょっとしてと思って聞くと、韓国語ではそのように言うのだという。母語表現の干渉だったのだ。

  さて、そうなると上の表現がなぜおかしいのか説明するのは大変である。結局のところ、

という表現が、その人の行動と関係なくもともと存在するものを表すものなのに、「二つ目」という認識がその人の立場に立って、これから目的地に行く場合にのみ成立するものであることが、ふつりあいを起こしているのだろうと説明したのだが、それでよかったのだろうか? 納得してくれたかも定かでない。

  他に、道案内で韓国語話者がよくするあやまりに、

というのがある。このほうは予測できていたので適切に対処できた、と思う。

などと言えば、こちらの言い分も理解してもらえる。二回目にまちがえた人には、

なんて言ってやった。この二つの例とも、なんか韓国語がすごく自分中心に話しているように思えるのは、……たぶん偏見なんだろう。 top メール 感想 投稿


1998.5.19   イングリッシュネーム

  英語のクラスでは、受講生にイングリッシュネームをつけている。
  以前、在日韓朝鮮人の人たちとそんな話をしたことがあるが、在日の人たちが本名をオリジナルな発音で名乗るかどうかを自分たちのアイデンティティーの問題として意識せざるを得ないのに対し、日本以外の場所、たとえばアメリカやオーストラリアの英語学校にいる韓国人たちは自分から英語式の名前をつけて呼んでもらうことが多いそうだ。

  しかし、少なくともわたしは、自分から受講生に日本名をつける気にはならない。この文脈で「創氏改名」などという植民地時代の話を持ち出すのは、ひょっとしたら神経を使いすぎなのかもしれないけれども、外国語を学ぶことがアイデンティティーの問題に浸食することは、慎重に避けたほうが賢明だと思うからだ。

  ただ、そうは言っても、外国語をまなぶなかで、文化の相対性を自覚することは学習効果の上からも有効だし、時にはまなぶことの目的のひとつにもなるべきことだとも思う。ダイアローグの練習などで、日本人の役割を演じさせることなどから、軽やかに異文化を渡っていける若者がそだつことをわたし自身もねがっている。名前へのこだわりは、そんな問題とからんでいて、ただただ硬直した結論にしがみつくことが最もよくないのではと、かんがえたりもする。
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1998.5.18   過剰訂正

  英語の先生からきいた話。「朴パk】」という受講生が、最初にでた授業で、

    I am fuck.

と自己紹介したそうだ。英語の先生は、言葉を失ってしまったそうだ。


  これは典型的な「過剰訂正」である。
  韓国語では[f]の発音がないので、外来語の発音ではふつうこれが[p‘]に置き換わる。たとえば、「ファン(fun)」は`ぺn】となり、事実上発音の上で「ペン(pen)」と区別がなくなる
(ハングルの上では母音の違いをかき分けている)。この発音が正確でないことを意識していると、反対に、英語で[p]と発音すればいいときにまで[f]にしなければいけないと思いこむことがある。こういう心理から生まれる誤りを「過剰訂正(hypercorrection)」というのである。

  しかし、自分の名前まで過剰訂正するものだろうか。「朴パk】」のパ】は無気音だから、ふつうは[f]と混同されることはないはずだ
([fa]が置き換わる発音は、有気音の`ぱ】。これは、「朴パk】」がいったん、英語表記の《Park》になり、その英語式の発音を意識するあまり、[p]が[f]になったと考えるしかない(英語の/p/は環境により、有気音の[p‘]にも無気音の[p]にもなる。このうち有気音の[p‘]が[f]と混同されるのだから)。このまちがいを引き起こした心理をたどると、この韓国人が英語に対しては自分の名前すら相手に合わせなければならないという観念に支配されていることが読みとれる。


  過剰訂正は日本人にもある。わたしが福岡に住んでいたときによく聞くことのできた発音に、
     「ゼーアール」
というのがあった。これは、「JR」のことである。
  なぜ、「J」「ゼー」になってしまうのか。博多弁では、「じぇ」という音が出ないのか?

  反対である。博多弁では本来、東京では「ぜ」となるべきところの音が「じぇ」となることが多いのだ。だから、東京式の発音をしようとするときは、「じぇ」と発音したくなるような音があれば、「ぜ」に直さなければいけないと、自分をしかりつけながら話している人が多いはずだ。そういう人たちの過剰訂正が、過剰訂正のメカニズムを共有していない人にまで広がって、「ゼーアール」という奇妙な発音を定着させたのだろう。そこには、地元の発音と東京の発音と英語の発音に対する地元の人の屈折した価値意識をみてとることができるはずだ。
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1998.5.14   タイタニック

  10日の日曜日。英語の先生たちが、「タイタニック」を見に行く企画をたてた。
こんどきた二人目の英語の先生は、いろんな企画をたてるのが得意だ。きてすぐに、教室をオーストラリアのポスターだらけにしてしまった。そして、わたしに、「日本語の教室も日本風にしろ」と言ったりした。
それなら部屋じたいを和室にしないと中途半端になるので、困ってしまったのだが。

  語学を学ぶのには、文化的な要素も欠かせない。英語を学ぶのに、映画を見に行くのも悪いことではない。ただ、映画についていえば、きたばかりの先生が簡単に企画できるような人気のある映画が、束草のような地方都市でもやっているのが、英語をめぐる現状である。わたしの努力の問題もあるだろうけれども、日本語文化をめぐる韓国の状況は、これと明らかに違う。受講生の意識も、微妙に違っている。このへんをどう、整理してかんがえたらいいか、まだ、よくわからないでいる。
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1998.5.12   猫がネズミを考える?

  5月10日の、「ねこ」をつかった言い回しの続編。
  更新も訂正も効くメディアなので、調査不十分のままだが書いておくので、もし、違う解釈や説明をごぞんじの方は知らせていただきたい。

  以前にも、この「ねこ」を使った韓国のことわざについて受講生に尋ねたことがあるけれども、そのときに、

と、いうのを紹介してくれた人がいた。そして、その人がその意味をいっしょうけんめい説明するのを聞いたのだが、全然わからなかったことがあった。あとで、家に帰って、辞書を見たら、

とあった。そのまま訳せば、たしかに、「ねこ(が)ねずみ(を)考えるよう」である。しかし、これでは意味が通じない。

  この辞書(『朝鮮語辞典』 小学館)による解説は、以下のとおりである。

ここで注意しなければならないのは、「思いやる」という訳しかただろう。せ~+カ`か+タ】(生覚=は+タ)という動詞は「思う」「考える」を含むから、韓国人に日本語を教えるときには、この二つの区別に注意させる必要があるけれども、さらに、「思いやる」という意味まであることが、ここでわかる。これを「考える」と訳すのは、いちばん遠い訳になるだろう。日本語の「思う」には、かすかに「母親思いの息子」というような使い方があるので、連続性が感じられるが、それでも意味が伝わりにくい。

では、文字どおりの意味になってしまい、その偽善性が伝わらない。それだったら、

などの表現をする必要が出てきそうだ。ここでは、「〜を」「〜のことを」の使い分け、「考える」「思う」「思いやる」の使い分けが、微妙にからんでいる。

  さて、このことわざ、別のクラスでたずねたら、受講生によって、解釈も原形も分かれてしまった。ある人は、「ネズミがねこ(のこと)を思う/思うやる」の形だと主張し、「力のあるものが下の者を思いやるのは当たり前だが、力がない者が上の者を思いやるのは身分不相応だ」という意味ではないかという。ちなみに、「身分不相応」の部分は、彼女の話をいろいろ聞いた結果、わたしがたどりついた日本語訳であるから、彼女の意を十分にくんでいるかどうかは定かではない。もう一人の受講生は、わたしの辞書にあるように「ねこがネズミ(のこと)を思う/思うやる」の形だと言うのだが、意味がよくわからないらしい。

  正解を求めるのは、ある意味で簡単で、それなりの本を当たればいいことだが、あることわざが現実にどのように理解され、解釈され、使われているかということは、それと別問題で、それ自体、別の価値をもったことがらである。わたしには、むしろそのことのほうが興味のあることなのだ。
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1998.5.10   かりてきた麦袋

  このコーナーは、自分の仕事の反省の機会を作ることと、日本語教育にかかわる人たちにいくばくかの参考になる話を提供することを目的に書いているのだが、ときどき聞く感想の中では、「韓国語の学習の役に立つ」というものがけっこうある。これを正面から売り文句にするほど、語学の能力はないのだけれども、せっかくなので書いておこうというのが、この話である。

  最後の時間の授業。何日かぶりに、『中級から学ぶ日本語』の第1課の本文をあつかった。「猫」をつかったいいまわしを紹介する。そこから話が展開していったのだけれども、「かりてきたねこ」に似た、韓国のことわざがある。

という。小学館の『朝鮮語辞典』によれば、「周囲が笑って話をしているのに一人だけ黙っている人」という意味らしい。「かりてきたねこ」と、意味も近い。だが、どうして「麦の袋」なのか。

  このことわざの存在を教えてくれた受講生に聞いても、はっきりしない。「ねこは、初めての環境に放り込まれると警戒心からおとなしくなると説明がつくけど、麦袋は最初から話したり動いたりしないから“借りてきた”ということばと どうつながるのかわからない」と追及したのだが、満足な説明には至らなかった。

  ところが次の日、同じ受講生が「偶然新聞に出ていました」といってきた。かれが教えてくれたことによると、つぎのような次第である。

  さて、このような語源にかかわる話は誰にとっても興味深いものである。ただ、わたしは少し別のところに興味をもった。語源は忘れられる。「借りてきた麦袋」という短縮した言い方が成立したのは、語源が忘れられたということと引き替えだったに違いないということだ。むしろそこにこそ、記号論的な言語の性格が語られているのではなかろうか。 top メール 感想 投稿 


1998.5.9   続・非分節的音素

  この下の記事の続編である。

  その後、何人かの韓国人に、この『文化初級日本語』韓国語解説版の記述の真偽を確かめた。
結果は、半分ぐらいの人が、そのような区別があるといい、半分ぐらいの人が、「いや、どちらも同じだよ」と言った。

  他の件でもそうなのだが、韓国人の受講生たちに韓国語の発音を確かめようとすると、急にかのじょら/かれらのほうが、自信をなくして、「調べてきます」などと言ったりすることがある。

  いったい、自分たちがどのように話しているのか答えてくれと言っているのに、改めて尋ねられると、「正しい」発音を調べなければならないとはどういうことなのだろうか。かといって、かのじょら/かれらが全員ソウルのことばと相当違う話し方をしているとも言えないのだけれども。

  言語の規範がどのように意識されるかという点では、韓国は興味深い研究対象かもしれない。あまりよい状態だとは思えないのだけれども。 
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1998.5.6   非分節的音素

   「非分節的音素」などといきなりとんでもない表題だが、ようするにイントネーションのことである。

  『文化初級日本語』は、おそろしい教科書である。使っていくうちに、作成者の隠れた意図に気づかされることがままある。『新日本語の基礎』のように、文型が丸見えの教科書とはちがい、深謀遠慮というべきものが散りばめられているのである。

  今日、感心したのは、教科書本体ではなく、韓国語解説版である。ここでは、わたしが先月、ここで書いた韓国語でははっきりしない、「誰かいますか」「誰がいますか」の差を、ちゃんと韓国語で説明してあるのだ。

  ここでは、「何か買いましたか」「何を買いましたか」の説明なのだが、

   .む
,_*すl _*すm*か】    .む,お_*すl さ_*すm*か】 

というイントネーションの相違として示しているのだ。[上の文字の上縁をなぞるようなイントネーションになる。] 

  わたしが、「韓国語では違いがはっきりしない」と書いたのは、失敗だった。文字で書かれたものを言語そのものであるととりちがえてはいけない。そう、普段から言ったり書いたりしているのに、うかつだった。このように、ちゃんと区別がされていたのだ。

  日本語でも、「そうじゃい」と「うじゃない」は、はっきり区別されている。こういうことに、対する感覚を鋭くさせておかなければ、ことばの教師としては失格なのだ。  top メール 感想 投稿 


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