(2000年8月27日より)

  日本語教育の観点とは なにか
  -外国語教育理論をふまえた日本語学のために-

2000.08.19 대학원동문회 정기모임 발표
200080137  AKIZUKI-Yasuo 

以下のレジュメは、2000年8月の釜山大大学院同門会のために
作成したものである。このレジュメは、5章により構想された論文の
第2章までをその内容としており、第3章以降は、その構想をしめす
ために、みだしのみを かかげることにした。          


0.日本語教育のための日本語研究という課題

 『日本語教育』の最新号である106号の巻頭に、森田良行の寄稿が掲載されている。その冒頭の部分を引用しよう。

 ここで森田が いっていることは、「品詞分解は理解行為の役にたたない」ということだけれども、それは単に高校での古典教育に とどまる はなしではないだろう。非母語言語教育としての日本語教育をかんがえたときに、このことは、さらに はっきりとしてくる。日本語教育において、文法教育は不可欠の要素であることは、いうまでもないが、かといって、それが上述の品詞分解のようなことをくりかえしていても、なんの役にもたたないことは明白である。
 ここで、はっきりと問題設定できることは、日本語の習得という目標に対して有益な文法教育が もとめられており、そのためには教育的見地からの文法論が必要だということである。そして、それが どのようなものであるのかと いうところから、われわれは かんがえはじめなければならない。


1.「国語学」的たちばと 日本語教育の たちば


1-1.国語教育と日本語教育

 うえの森田の問題提起は、国語教育と日本語教育の観点のちがいをあらわしたものとして みることができる。むろん、品詞分解に終始するような古典の授業が日本語話者に対する日本における国語教育としても、適切であるとは おもわれない。しかし、それが授業として成立し、多少なりとも そのような訓練をさせることが古典の読解に役だつと かんがえることができるのは、それが国語教育であるからである。
 なぜなら、品詞分解が意味をもつのは、それによって、単語のくぎりと、ひとつひとつの単語の原形が あきらかになり、そこまで いたれば、あとは古語を辞書でひいて現代語に おきかえるだけで現代語訳が えられることが期待できるからである。もちろん、そのような直訳では解釈できない部分は多少なりとも存在するであろう。そして、それに対しては別の説明が あたえられるはずである。それであっても、その他の大部分については、この方法で解釈がつくとすれば、まず、この手順によって現代語訳をえる方法を暗黙の了解として、訓練することに、それ相応の意味があると かんがえるのは、無理からぬところである。

 しかし、品詞分解をすれば解釈がつくというのは、非母語教育では通用しないやりかたである。なぜなら、
 1.品詞だけが わかっても、統語構造が わかるとは かぎらない。
 2.統語構造が つかめても、学習者の母語に対応する構造がなければ、適切な
  解釈に いたるかどうか、わからない。
 3.品詞の原形が わかっても、その語の文脈での意味が とらえられるかどうか
  わからない。
 4.いわゆる熟語・慣用句・かかりうけなどの把握は、要素に分解したものを
  再構成することによっては なしえない。
からである。別のことばでいえば、品詞分解によって、解釈ができるということの前提には、古典作品の日本語と現代日本語のあいだに、統語構造、語用論、熟語・慣用句の同型性があるという(それ自体は厳密に検討すれば かなり あやしい)信念があるのである。これらの信念が、ことごとく成立しない外国語教育の場にあっては、ここで不問に ふされている1~4の それぞれについて、それらを解明するてがかりになる文法をかんがえなくては、役にたたないということなのである。
 ここに、国語教育の発想と、日本語教育の発想のちがいがある。

 ところが、それにもかかわらず、韓国における日本語教育の事情を複雑にしているのは、ほんらい日本語教育の発想が 国語教育の発想と ちがっていなければならない点において、それが国語教育のもの そのままであっても、通用してしまう余地が あるということでもある。矛盾しているようだが、韓国語と日本語の文構造が にているため、ちょうど日本語話者に対して古典作品の品詞分解をするような方法であっても、韓国人話者に対して日本語をおしえる役に たたないわけではない、ということも いえるのである。そのことは、どのような結果をもたらすか。それは、上記1~4に あるような問題点を放置し、韓国語と日本語の ちがいが存在するところがあっても、それに頓着しない教授法が通用してしまうという弊害として、あららわれざるをえないであろう。それは、すでに日本語ではなく、韓国語化された日本語であるのだが、その、韓国語化された日本語が、韓国における日本語教育のなかに構造的に生じているとすれば、それは無視できない問題だろう。で、あるからこそ、韓国での日本語教育という舞台のうえでは、国語教育の発想と徹底的に対立させながら、日本語教育の発想とは、どんなものであるべきかをあきらかにすることが、ますます重要なことではないかと おもわれる。以下の論考は、このような問題意識から、この問題への あしがかりをえようとするものである。


1-2.日本語教育の構成

 それでは、日本語教育の発想とは、どんなものであるべきだろうか。

 縫部義憲(ぬいべ・よしのり)は、『日本語教育学入門』(1991 創拓社)において、国語教育と日本語教育の ちがいについて、このようにのべている。

 そのうえで、日本語教育の構成を、以下のように図示している。

WHAT
      What      Why      When
 Who------------------------------------------------------Whom
         Which     Where       How   

 

大文字WHATは日本語教育の全体(Gestalt)であり、そこに「全体との有機的な関連を構成する要素」が8つ存在するとする。それらを順にあげれば、

 Who :日本語教師         Whom :学習者
 What:学習対象(教材・言語材料) Which:シラバス作成
 Why :教育目的・学習目的     Where:教室経営、人間関係形成などの土壌
 When:カリキュラム編成、授業時数、コースデザインなどの教育条件面
 How:指導方法・学習方法に関する要因

縫部によれば、これら8つの要素が日本語教育の本質論(WHAT)と相互に有機的な関連性をもちながら、一つのシステムとして確立されたのが、日本語教育だということになる。
 ここでは、日本語教育そのものをあつかうのではなく、その基礎となる言語研究のありかたをさぐることが目的であるので、おもにWhat ; Which ; How にかかわる部分をみていきたい。


1-3.日本語教育の発想~学習対象

 前項の引用にもあるように、日本語教育の学習対象となる「日本語」とは、まず、コミュニケーションの手段としての言語である。これは、さしあたり、以下のことを意味している。

 1)古典語との関係が問題とされない、共時態としての現代語であること
 2)かきことばで あるまえに、はなしことばであること
 3)受容面ばかりでなく、生産面が開発されなければならないこと
 4)認知学習が技能の獲得とむすびついていること
 5)コミュニケーションの文化的・非言語的側面にも注意をはらうべきこと

 まず、ここで1)2)に着目すると、これは上述の、What:学習対象(教材・言語材料)に かかわっている。非母語学習の対象としての日本語学習をかんがえれば、その学習目的が よほど特殊なものでないかぎりは、この1)2)の内容は、当然のことのように おもわれる。
 ところが、従来の国語教育において、とらえられていた「国語」とは、かならずしも、ここでいう「日本語」像と一致しない。言語学者であり、国語学者でもある亀井孝は、

と、のべている。亀井の「こくご」という概念に対する批判精神は、1990年代にはいってから日本における「国語イデオロギー批判」として、さまざまな論考をうんでいる。そのうちの代表的な著作である『「国語」という思想-近代日本の言語編成』において、イ・ヨンスクは、その序文で、

と、指摘している。むろん、フランスにおいても、現実にフランス語がつかわれている地域は、その領土の一部にしかすぎない。が、問題は、「現実には、どんなに言語変異があったとしても、それをこえたゆるぎない言語の同一性が存在するという信仰をもつかどうかである(同書)」。

 こんにち、「国語」という ことばで日本語をさししめすときには、その ことばについての、このような出自を意識せずに論じることは ゆるされないだろう。そしてまた、このような「国語の思想」が うちたてられてからの「日本語」もまた、「国語」イデオロギーから自由では ありえなかった。「国語」の思想は、「日本語」に「日本精神」との むすびつきをしいた。そして、日本列島に えいえいとして すみついてきた民族の同一性と単一性を体現するものとして ひとつの言語が古代からつづいてきたという、まさに「国語」が成立するために くぎられて、ひとまとまりだと信じられた言語の束が「ひとつの日本語」と よばれないわけには いかなくなったのである。
 このような「国語」の成立を背景にして 構築されてきた「国語学」の伝統は、どうしても、現代語が古代語から ひとつづきの「日本語」として つながってきたということを強調することをその任務と かんがえがちである。それがために、それは文献学と語学とが混合した かたちをとり、かきことば中心の研究になっていくこともしかたがない。
 ここで、日本の「国語学」について詳細にのべることは さしひかえるが、そこで一般的に つかわれている いわゆる「古典文法」ひとつとってみても、それが平安時代の古典を読解するために活用を整理したものであり、口語の学校文法もまた、その整理方法にしたがっていることをみても、「国語学」の標準が、いかに古典的であるかが おしはかられるだろう。

 しかし、日本語教育に役だつ日本語研究は、まず、第一に現代の日本語を独立したひとつの言語体系として とりあつかわなければならない。また、過去の文献を研究するのではなく、現在、つかわれている ことばをありのままに とらえ、それを再生産していく作業に参加することでなくてはならない。
 したがって、「国語学」とは区別された対象と、方法について、自覚的である必要があるだろう。そして、その方法は近代言語学や外国語学習理論のなかから、さぐっていくことができるのでは ないだろうか。2章では、これを構造主義言語学の手法に もとめてみたい。そして、アメリカ構造主義言語学の影響をうけて つくられた外国語教育理論であるオーディオ・リンガル法との対照で、現在の日本語教育のもつ問題点について、ふれてみたい。


1-4.日本語教育の発想~シラバス作成

 つぎに考察の対照にしたいものは、1-2に かかげた整理において、 Which:シラバス作成に あたる部分である。
 シラバスとは、学習対象とされた言語の内容を、どのような項目にそって編成し、どのような順番で おしえていくかをきめることである。それ自体は基礎研究の応用であり、言語研究そのものではない。しかし、このシラバスに関連しては、母語話者を対象とした国語教育とは ことなり、日本語教育のために必要な言語の基礎研究の分野がある。その言語を習得するということに かかわる過程の研究である。
 すなわち、言語を習得するのに必要な要素を項目として かきだし、その習得過程での相互の連関に注意しながら これらを編成していく際の合理的な順序について考察すること、すなわちシラバスをかんがえるということは、言語の基礎研究のありかたにもかかわる問題なのである。

 前項でかかげた、コミュニケーションの手段としての言語学習という観点の整理のうち、

 3)受容面ばかりでなく、生産面が開発されなければならないこと

が、このシラバスにかかわっている。生産面が開発される言語学習にとって、どのような構造、どのような文型、どのような語彙、どのような発音にかかわる事項が基礎となり、どのような構造、どのような文型、どのような語彙、どのような発音にかかわる事項が、その基礎のうえに つみかさなって生成しているものであるかを解明していくことが もとめられるだろう。そのような視点からの言語研究が まず あり、そのうえで、学習者の母語との対照研究という課題も視野に はいってくる。
 さらに、構造的なシラバスにかわって、あたらしい教授法では、機能別のシラバスや、場面シラバス、さらに複数シラバスの こころみなどが されているが、構造シラバスでなければ言語研究には かかわらないということは できない。観点のことなるシラバスに おいても、どのような順序で おしえていくかをかんがえるときに、その観点に応じた言語の基礎研究が かかせないのである。
 こうした課題に対して、3章では、生成文法や認知言語学の手法にヒントをえながら、言及をこころみたい。


1-5.日本語教育の発想~教授法

 最後に、1-2に かかげた整理において、 How:指導方法・学習方法に関する問題点について、ふれたい。
 最近の外国語教育では、さまざまな教授法が 提案され、こころみられている。
それ自体は、言語の基礎研究とは別の分野のことであるけれども、あたらしい教授法は、言語の分析に対しても、あたらしい観点を要求することがある。
 とりわけ、母語話者に対する国語教育とは はげしく ことなる側面として、非母語教育には、文化的な摩擦などの言語外のコミュニケーションの障害に対しても言語使用のなかで対処していかなければならないという問題が指摘できる。
 縫部(前掲1991 p.49)では、外国語教育とは「自分とは異なる行動様式や思考方式への洞察から生ずる、心を開くヒューマニスティクな体験を与えること」というW.Riversのことばをひき、異文化のひとびとに対する共感的理解をはぐくむことを、外国語学習の重要な側面としてみている。

 この、教授法の問題にかかわって、1-3に かかげたコミュニケーションの手段としての言語学習という観点の整理のうち、関係がふかいのは、

 4)認知学習が技能の獲得とむすびついていること
 5)コミュニケーションの文化的・非言語的側面にも注意をはらうべきこと

であろう。
 このようなヒューマニスティクな教授法を採用するに際して、言語研究の分野においても、その言語の特質や、言語そのものが はらんでいる特有の価値の体系に敏感でなければならない。より具体的にいえば、待遇表現の しくみであるとか、表現の婉曲化などの現象は、そのための文型が体系だって存在するという点で言語構造の研究対象であると同時に、文化的価値観に直接、むすびついたものでもある。
 こうした問題点に関しては、4章で、コミュニカテイブ・アプローチやヒューマニスティクな教授法理論との関連で論じたい。


2.共時態の研究としての「日本語学」


2-1.「国語学」的な研究との けじめ

 近年、日本の大学の講座名で「国語学」と称していたものが「日本語学」と改称している例が おおい。講座の内容やスタッフなどは、なにも かわっていないが、外国人留学生の増加にともなって改名したというケースもあるらしい。このように、「日本語学」と「国語学」とは、おなじ意味で つかわれることもある。
 しかし、当初「日本語学」という名称がえらばれたときには、ほかの おおくの言語のなかの ひとつである「日本語」の学という意味が こめられていた。それは、個別言語学としての「日本語学」であり、あるいは非母語教育としての日本語教育の基礎研究としての「日本語学」で あった。
 ここで、わたしは あえて、旧来の「国語学」とは原理を異にするものとして、「日本語学」という ことばをつかうことにしたい。なぜなら、国語学が「国語学」と なのっている以上は、わたしたちの言語を「日本」という国家の単一民族幻想につなぎとめる役わりを無意識のうちにでも はたしてしまうからであり、たとえ現代語の分析をそれとして おこなったとしても、それが「国語」の単一性という信仰に、どこかで むすびつけられて解釈されてしまう危険が あるからである。
 「国語学」の なのもとに、どのような研究が おこなわれようと、もちろん問題はないし、なかには すぐれた研究が おおいことも じゅうぶん承知しているけれども、日本語教育のための基礎研究をめざすという たちばをとる以上、自分の研究には、自覚的に「国語学」との ちがいをけじめとして はっきりさせておく必要が あると おもうのである。

 そこで、まず、このように「国語学」から区別された「日本語学」は、まず、研究対象を現代の 実際に つかわれている日本語とし、それを、無前提に ふるい時代に日本列島で おこなわれていた言語と むすびつけることに、あくまで禁欲的でなくてはならない。それを別のことばでいえば、「日本語学」は共時態の研究に徹しなければならないと かんがえる。
 いま、この「共時態」というのはソシュール(Ferdinand de Saussure 1857-1913)の『一般言語学講義』(1916)によって はじめて定義された操作概念であるので、簡単にそれをふりかえっておこう。(以下の要約は亀井孝1936を参考にした)

 われわれが一般にソシュールの理論として かんがえているものは、ソシュールの死後、弟子たちによって その講義録が編纂されて出版にいたった『一般言語学講義』が その ほとんどである。いま、同書にしたがって簡単にその説をまとめると、まず、ソシュールは言語現象全体をlangageと よぶ。これは、個人の領分にも社会の領分にも属しており、統一ある学問的な研究対象には なりえない。かれは、言語活動をparoleとlangueとにわけ、langueとは、ひとりひとりの脳裏に蓄積された印象の総和として集団のなかに存在するものであるとする。これは、その ことばをはなす ひとりひとりが所有していて、しかも その全員に共通な、各個人の意志をはなれて存在している なにものかであるとされる。これに対し、paroleは ひとびとが はなす ことがらの総和であるけれども、それは個人的であり、瞬間的であって、そこには個別的できごとの よせあつめ以上の意味はない。
 つぎに、ソシュールはlangueに同時性と継起性とをかんがえ、それぞれに応じて、共存するlangueのの状態の研究と、時における その変遷の研究とを区別した。前者をlinguistique synchronique(共時言語学)、後者をlingistique diachronique(通時言語学)とよび、また、synchronie(共時態)、diachronie(通時態)という語をつかって、それぞれlangueの静態、進化の相をしめす。そして、文法研究は言語の共時論の領域に属するとしたのである。

 以下にみられるように、ソシュールは、くりかえし、しつこいほどに、文法研究において歴史的な要素を排除すべきことをのべている。ヨーロッパの言語学における歴史主義の伝統が それほどまでに つよかったのだとしても、このことには注意をはらうべきであろう。

このソシュールの態度をかんがみたとき、「国語学」的伝統のつよい日本語研究の潮流のなかで言語学的な研究をおこなおうとするばあいにも、このことはおなじく特別の注意を要するのではないかと かんがえざるをえない。

 「国語学」の世界で、まま おこりうる、通時論と共時論の区別があいまいな議論を日本語教育に あてはめようとすることからくる危険は、おおきい。次項ではその一例をあげてみたい。


2-2.問題のある「国語学」的説明の事例

 日本の著名な国語学者である大野晋は『日本語をさかのぼる』で、日本語の指示詞であるコ・ソ・アの体系についてふれ、つぎのように かいている。

 この結論にいたる過程で、大野は、ウチとト(内と外)の観念についてふれ、それが、コソアドの体系に関係しているという。そして、その古代における用法の事実は、コ(近称)ソ(中称)ア(遠称)ド(不定称)という従来の解釈では おおいきれないとして、それを批判する。
 近・中・遠・不定という いいかたが、現物指示の用法に則して なづけられたことは想像に かたくないが、その現物指示の用法についてさえ、物理的な距離のちがいによって、これらが区別されているというのが ただしくないというのは、そのとおりであろう。大野は かわりに、「自己の存在領域、あるいは自己の生活領域の問題とからめて考えてみよう」とする。そして、「ここ、こなた」と「かしこ、かなた」の古典における用例をあげ、「コはウチ(内)にあるものを指し、カはト(外)にあるものを指す」とした。さらにその解釈を「これ」と「かれ」にも適用し、つぎのように結論づけている。

すでに、ここで、古典(大野は いったん「ことに古代における」と説明しながら、実際には『源氏物語』『大鏡』『平家物語』『方丈記』『今昔物語』などから引用している)からの引用で自説を説明しながら、それをすぐさま現代語に うつしかえ、その説明が現代にも つらぬかれているように みせていることが わかる。大野が いおうとした区別が古代から現代まで通時的に なりたつのだと いうのであれば、それぞれの時代における共時態の分析をおこない、そこに変化が ないことをしめさなければならないはずであろう。たしかに古典においては資料が かぎられているかもしれないが、現代語については、いくらでも用例をあつめることができる。そして、いきなり「アレー」などという感動詞をひきあいにだすのではなく、それまでの古典からの引用で 自説をしめそうとした「ここ、こなた、これ」「かしこ、かなた、かれ」に比較しうる「ここ、こちら、これ」「あそこ、あちら、あれ」について、自分の説が なりたつかどうか検証してみればいいのである。いったい、現代語において「あそこ、あちら、あれ」と いったら、「主体にとって、未知・遠隔のものとして扱うと見るべきもの」であるかどうか、すこしでも まじめに用例をあつめれば、そうでないことは、あまりにも単純な事実として確認できるだろう。一例をあげておく。

   バスガイド: あちらに みえますのが、東京タワーで ございます。

 そもそも大野は、「まず代名詞の問題で重要なことの一つは、ココ(此処)コレ(此)コナタ(此方)コチ(此方)など、コ系の代名詞とソコ、ソレ、ソナタ、ソチなどのソ系の代名詞とがあるが、古くはコ系とソ系とは対になってはあまり使われない。むしろコ系の代名詞は、カシコ、カレ、カナタ(後のはアシコ、アレ、アナタ、アチ)などカ系(後にはア系)の代名詞と対になって使われる事が多いのである。」と ことわりをいれ、古典については、コ系とカ(ア)系の対比しか検討していない。そして、ソ系については、こんどは いきなり現代語での用例をあげ、「それは去年のことでした」のような文脈指示の用法をしめしたり、医者が患者の からだの一部分をおして「痛いのはココですか」と きくと患者が「ソコです」と こたえるなどという例をだしてきて、「相手にとって既知と扱っている」のだと いいきってしまう。あげくの はてに、暴漢に おそわれたときに「ソレー」とは けっしていわないなどと おまけまでつけるのである。
 この大野の論法が、共時態の分析と通時態の分析をごちゃまぜにして、つごうのいいところばかり よせあつめたものであることは、ここまでの要約をみただけでもあきらかであろう。そもそも「古くはコ系とソ系とは対になってはあまり使われない」のであれば、そのことが すでに、現代語のコソアドと、ふるい時代のそれとを同列に論じることはできないということをしめしている。そこでは、語の かたちに連続性があるといっても、それぞれの時代の共時態における価値は、その共時態のなかでしか きまらないのであるから、すでに、比較の対象には できないとするのが、まっとうな研究の方法であると いわなければいけないのである。

 ちなみに、ソ系についての大野の説は、現代語の分析としても あやまっている。まず、それまでの用例で現物指示のものを とりあげていたのにもかかわらず、ソ系についてだけ文脈指示をもちだすことが文法研究としては失格であるし、医者と患者の例にしても、患者が「そこです」と こたえたのは、「共有の認識」なのではなく、医者が どこであるのか、決定できなかったところを、場所を指定することによって伝達しているのである。つぎの会話をみていただきたい。

   A:灰皿は どこですか?
   B:そこです。
         
  (『しんにほんごのきそⅠ』1990海外技術者研修協会)

この例に いたってまで、「そこ」を「共有の認識」というひとは、いないであろう。
 わたしたちは このような通時論と共時論の区別があいまいな分析の方法を厳格に排除しなければならないということが、この例から わかるのではないだろうか。


2-3.構造主義言語学とオーディオ・リンガリズム

 ソシュールに はじまる構造主義言語学は、アメリカにおいて、また別の発展をみせた。それは、言語の研究から、極力「意味」を排除し、言語を客観的に考察できることろから、科学的に記述していくという研究方法で、アメリカ先住民の諸言語の調査をすすめていくという、画期的なものであった。
 この方法の成功により、アメリカ構造主義言語学の研究手法を言語教育に応用できるのではないかと かんがえ、形成されていったのが、オーディオ・リンガル法である。

 中森昌昭は、オーディオ・リンガルの本拠とされた、米国の機関における日本語教育の実態を、つぎのように報告している。

 ここで、FSIというのは、Foreign Service Institute :米国国務省日本語研修所のことで、エレノア・ジョーデン(E.H.Jorden)は、オーデイオ・リンガル・メソッドを代表する教師である。FSIでは、当初から純粋なオーディオ・リンガル法ではなかったと いうことだが、それは、政府機関であったためと、おもわれる。 しかし、「純粋なオーディオ・リンガル法に反する」とされる上記[1][2]は、それにつづく授業での1)~4)の練習を純粋なかたちで実行するための担保という意味あいもつよくて、実際、時間も講師も別の人間が担当していたという。

 ここから、オーディオ・リンガル法のもつ言語学習観の特徴をまとめると、つぎのように なるだろう。

 このうち、cとdに対しては、あたらしい教授法理論から異議も だされている。しかし、a.b.については、いまでも ほとんど すべての外国語教授法が共通にもつ価値観であると いえるだろう。しかも、この ふたつは「国語学」的な接近方法とは逆なのである。であれば、この点について従来の言語研究に言語教育の観点から反省すべき点があると かんがえなければならないのではないだろうか。以下、その実例をしめしてみたい。


2-4.音声を重視した「て形」の指導

2-4-1.「て形」は活用形でなければならない

 日本語教育で動詞の「て形」といえば、「たべて・のんで・みて・して・ねて」などの、動詞の形式のことである。いわゆる学校文法では、これらの形式は、動詞の活用の ひとつとして みとめられていない。そして、これらは動詞の連用形に助詞「て」が接続したもの、あるいは その音便形であるといって処理するのである。なぜそうなるかというと、おそらく「歴史的にこれは、連用形が崩れたものなのであって、新しい活用の変化形なのではない」という通時的な態度を固持しているせいであろう。ここにも「国語学」が言語学の常識である共時態の分析をきらい、通時的な観点から「ただしさ」を主張しようとしている すがたをみることができる。 「たべて」の「て」が助詞である学校文法では、「のんで」の「で」は なんなのかという、至極当然な疑問が生じる。しかし、「て形」を独立した活用形の一つと考えれば、それに対して くるしい解答を用意する必要がなくなる。活用しないはずの助詞「て」が、音便によって「(ん)で」となったと いう必要がなく、「のんで」全体が動詞なのだとすればいいからである。
 よって、日本語教育では国語教育とちがって、「て形」を動詞の活用として あつかう。であるから、テストなどで、

     あの人は、教科書を(    )て います。

というような空所補充の問題をつくるのは、日本語教育の たちばに たっていないことになる。「て形」の最後のひらがなが「で」にもなりうるという事実が、「て形」を活用形の ひとつとみなす かんがえかたをささえているという、ものごとの根本をわすれたものであると、いわざるをえない。

2-4-2.ひらがなと発音教育

 ところで、「て形」の習得の困難さには、発音教育が ふかく関係している。ひらがなをおしえるときの発音教育の欠如が、そこに影響するのである。
 そこでまず、ひらがなと発音教育の関係と問題点について考察する。

 英語を学習する ばあい、ABC…Zのアルファベットの なまえをおぼえたからといって、英語が よめるようになったと かんがえる ひとは いない。ところが、日本語の学習では それと おなじことが わすれさられてはいないだろうか。
 もちろん、ひらがなと英語のアルファベットとを同列に ならべることは できない。しかし、ひらがなも また、字母の よまれかたと その音価が つねに ひとしいとは いえないのである。わかりやすいのは長音表記で、「ひこうき」を「ヒコ『ウ』キ」と いっては、よく通じない。長音の表記は 状況によって かきわけられるから、それについて しっていないと適切に発音できないのだ。促音、撥音のオトは、環境によってかわることになるし、長音も ふくめ、そもそも拍感覚が できていないと全体の発音がおかしなものになってしまう。さらに 助詞の「を」「は」「へ」も あるし 文字であらわされていないアクセントなどの要素も 考慮しないと通じにくい ばあいがある。
 このような問題を、なにを、どの程度、注意しながら発音しなければならないかを、教師は よく かんがえたうえで適切かつ計画的に指導しなければならない。もし、ひらがなの指導のときに そのような注意がなければ、 学習者たちは「字母の よみ」という不完全な知識だけをつかって自己流の発音をしてしまうだろう。また、その自己流の発音と実際の発音にギャップが うまれ、それが修復されないと、ききとり、かきとりに支障を生じ、のちの学習において よみかきの学習と はなしことばの学習が分裂してしまう。
 だから、まず注意すべき事項については すべて説明し、その全部が完全にできないのは当然としても、「自分には、なおさなければならない課題がある」ということを自覚させることが、最低限 必要ではないだろうか。問題意識をもたされていなければ、みずから修正することはありえないと おもえるからである。

 韓国語話者に対する日本語教育では、この問題をさらに複雑にする要因として、韓国語の発音上の干渉が あげられる。入門期の教科書には、ひらがなの字母の ひとつひとつに ハングルが ふってあるものがおおい。 これは、二重の意味で、おおきな あやまりをひきおこすのである。
 ここで、韓国標準の日本語のハングル転写法をかんがえてみる。(下図)


 あ い う え お や ゆ よ  아이우에오야유요
 か き く け こ きゃきゅきょ 
가기구게고갸규교 (語頭)
                  
카키쿠케코캬큐쿄 (語中・語末)
 が ぎ ぐ げ ご ぎゃぎゅぎょ 
가기구게고갸규교
 さ し す せ そ しゃしゅしょ 
사시스세소샤슈쇼
 ざ じ ず ぜ ぞ じゃじゅじょ 자지즈제조자주조
 た ち つ て と ちゃちゅちょ 
다지쓰데도자주조 (語頭)
                  
타치쓰테토차추초 (語中・語末)
 だ ぢ づ で ど ぢゃぢゅぢょ 다지즈데도자주조
 な に ぬ ね の にゃにゅにょ 
나니누네노냐뉴뇨
 は ひ ふ へ ほ ひゃひゅひょ 
하히후헤호햐휴효
 ぱ ぴ ぷ ぺ ぽ ぴゃぴゅぴょ 
파피푸페포퍄퓨표
 ば び ぶ べ ぼ びゃびゅびょ 
바비부베보뱌뷰뵤
 ま み む め も みゃみゅみょ 
마미무메모먀뮤묘
 ら り る れ ろ りゃりゅりょ 
라리루레로랴류료
 わ       を  っ   ん 
와   오 ㅅ ㄴ
《長音の後半部は表記しない》 

(大韓民国 문화 체육부 고시 제1995-8 "외래어 표기법";1995.3.16 より作図)

日本語の語中の無声子音をふくむ音節にハングルの有気音が あてられているのは、おそらく、促音に対して硬音(濃音)をあてたため、それとの区別をするためだと おもわれる。しかし、実際に日本語が発音されるときに語中の無声子音をふくむ音節が有気音として きこえる ばあいは さほど おおいとはおもえない。 一般的には、硬音に きこえるケースが おおいだろう。それでは、もし、これらを硬音でかきあらわせば、どうだろうか。今度は、促音との区別をほかの方法で表示しなくてはならなくなる。そこで必要な要素は拍感覚である。
 そうでなくても、語頭の無声子音をふくむ音節と、対応する有声子音をふくむ音節は、ハングル表記では区別されえない。長音は、長音記号をつかわないかぎり、長音でないオトと区別されない。ハングル表記では このような問題が そのまま発音に対する不注意に直結するのである。
 また、ある教科書では、語頭も語中・語末も 関係なく 無声子音をふくむ音節には硬音(あるいは激音)、対応する有声子音をふくむ音節には平音を対応させている。こうすれば いちおう、自分が発音するときには、語頭の濁音以外は、日本語話者にも それらしく弁別してもらえることになるが、ひとたびネイティブの発音に ふれるや、ききとりに障害をおこし、ならったことと実際とのギャップにくるしまされることは想像にかたくない。このギャップが発音を矯正しようとするきっかけになることは まれで、おおくは、実際の発音を無視して、自分にとって区別がラクな仮想の音韻体系のなかでだけ勉強をつづける態度に とじこもることになるのではなかろうか。実際、たとえば「かみ」という単語の かきとりをすると、教師が[kami]と発音しているのに、「いまのは[kami]ですか、 [k‘ami]ですか」と質問し、[kami]と こたえると「がみ」と かく学習者が あとをたたない。仮想の音韻体系のほうこそが ただしいと おもいこんでいるわけである。こうした現象は、無声/有声の対立だけではなく、注意して観察すれば、発音の困難な部分で随所にみられる。そして、いったんこのような学習態度が つくられてしまうと、あとから発音を修正することが、それまで習得した単語の知識をめちゃくちゃにしてしまう危険さえ うんでしまう。はやい段階から、かきとりをして、きこえてくるオトと 文字をむすびつける訓練をしなければならないと かんがえる ゆえんである。

 「き」の発音は「」、「て」の発音は「」といえば、問題ない。それなのに、「きて」の 発音が「기데」ではいけないということを学習者に納得してもらうのには、丁寧な説明と練習が必要である。英語をきちんと学習してきた学習者なら、類推がつくこともあろうが、韓国における英語単語や英語起源の外来語のハングル表記規定は、語頭における無声子音と語中・語尾における無声子音を区別せず、ともに激音(有気音)で表記することになっている(大韓民国 문화 체육부 고시 제1995-8 "외래어 표기법")ので、そのことが理解をさまたげる可能性も否定できない。
 かりに、「無声子音をともなう音節が語中・語末にあるときには、濃音の発音にしろ」と いうことを学習者が納得し、それに忠実に発音しようとしても、「기떼」では「きって」にきこえてしまう。「」をできるだけはやく いうように テンポを とって練習すると、じょうずになる。ついでにいうと、もし「きって」を発音させたいときには、反対に「」をできるだけおそく いうように テンポをとって練習すべきである。

 さきに、オーディオ・リンガル法の特徴をみたとき、

という項目があつた。このことをかんがえあわせるとき、もし韓国人話者に日本語教育を適用しようとするのであれば、かな表記と発音との関係には かならず留意しなければならないと いえるだろう。そして、近年、オーディオ・リンガル法への批判が おおく だされているけれども、筆者は そのまえに、はたしてオーディオ・リンガルの方法の大切な部分が忠実に実践されたことが あるのだろうかと、しばしば疑問に おもうのである。オーディオ・リンガリズムをのりこえるには、それが課題としており、そのための方法論をもっとも発達させた部分についてくらいは、その方法による指導を完成させてからでも おそくはないのではないだろうか。

2-4-3.「て形」指導の問題点と発音教育

 それでは、ひらがなと発音の関係についての指導と、動詞の「て形」の習得との関係をみてみたい。
 以下に あげるのは、韓国のパソコン通信で でまわっていた日本のアニメーション『となりのトトロ』のスクリプトの一部である。スクリプトに記載された表示によれば、韓国人数人がアニメーションをみながらセリフの日本語をかきおこし、それを「外国語学院」の韓国人日本語教師が校閲したことが うかがえる。全体として、一読して意味の通じない部分は ほとんどない程度に かきおこされており、漢字表記も的確であることから、このスクリプト作成に たずさわった人物が相当の日本語の実力があることは あきらかである。しかし、この、けっして基礎段階の学習者ではない韓国人によるスクリプトには、動詞の「て形」と「た形」の あやまりが相当に めだつ。以下は、それをとりだしたものである。
 なお、「た形」のあやまりを収録したのは、「た形」が「て形」と形態的に相同の関係にあるからである。


・あ そうだね せんせいも もうすこしで 退院(たいいん)できるだろうと いてたよ
                                  
いって
・しまった すっかり わすれって
           わすれて
・ごちそうさま いてきます
 
       いって
・さ-, まだ あいさつに いていなかったね.
            いって
・あな なくなちゃた.
    なくなっちゃった
・きえちゃたんだって.
    ちゃった
・りっぱなきだなあ, きっと ずっと ずっと むかしからここにたていたんだね
                             
たって
・こうやて つかうのよ
   やって
・めい, おかあさんの  体(からだ)の 具合(ぐあい)が 悪(わる)いんだって. だか
 ら こんど
帰(かえ)てくるの  延(のば)すって
      かえって

 【下線部分が あやまりの ある部分。そのしたに ただしい かたちをしめした】

 ここで集中的に あらわれているのが、促音「っ」の不足・過剰のミスである。前項で指摘したように、促音のミスが生じるのは その有無が、韓国語話者のミミには把握しにくいからに ほかならないと かんがえる。また、発音指導の際、拍感覚をやしなうことによって、発音のテンポを調整しながら発音しわけることをおしえていないと、これらをきくときに区別することは容易ではないだろう。その結果、スクリプトをおこすときのミスにつながり、いったん文字を介して習得したはずの「て形」と「辞書形」あるいは「ます形」との関係の規則も、ネイティブの発音をきくことで かえって混乱させられてしまうという問題が生じているのである。

 この問題を積極的に解決するためには、韓国人話者にとって、ききとりにくい拍感覚による発音の区別を強調して、集中して訓練する以外にないと、おもわれる。もちろん、その教授法には、たんなる反復学習にならないような さまざまな工夫がありうるとしても、この課題をさけて、現実の日本語の音韻上の区別を、韓国語話者にとって制御しやすい別の区別に おきかえるような方法で文法をおしえていては、会話能力は破壊されてしまうのである。
 はじめて日本語をならう学習者に、まちがった ひらがなの発音を導入してしまうことによる、しっぺがえしが、この部分に でてきているのだということをわれわれは認識しなければならない。


2-5.ここまでの まとめ

 以上、オーディオ・リンガル法の かかげる「共時態をあつかう」「発音を重視する」という ふたつの側面に則して、おもに韓国語話者に対する日本語教育が反省すべき事例ではないかと おもわれるものの ひとつである「て形」の指導について とりあげた。
 「て形」についても、これを「音便」などという いいかたをして副次的な形式ととらえるのではなく、ひとつの活用形として み、その活用の様相をも、音韻と音声の面から整理する基礎研究があってこそ、日本語教育に役だつのだということが、理解されたと おもう。このこと ひとつを とってみても、構造主義言語学の基本原則に のっとった態度で言語研究に のぞみ、歴史的な説明をあえて排除することから日本語教育の ありかたに反省をくわえるべき点が のこっていることが しられるであろう。とりわけ はやくから日本の「国語学」の伝統が そのままの かたちで 流入し、かつては 「国語」の なのもとに その学問までもが おしつけられ、日本の敗戦による解放後も言語研究の方法論としては、かならずしも そのことから自由になっていないばかりか、韓国における「国語」である韓国語の研究にまで、その かげをいろこく おとしている「国語学」の、通時的研究を共時的研究のなかに しのびこませる手法、発音よりも文字で かかれたものに本質をみてしまいがちな態度は、韓国における日本語教育にも深刻な影響をあたえているものと おもわれる。
 今後の わたしの研究は、そのような「国語学」的な思考と はっきりと みずからを区別することから、近代言語学の基本に忠実になることで みえてくる問題に いどんでいこうと するものでありたい。そのように かんがえる ゆえんである。

 ここまでの論考には 特に めあたらしい内容は なにもない。むしろ、日本において よくやく認知されてきた「日本語教師」という職業に たずさわるものであれば、ここまでの ことは、説明するまでもなく当然と おもわれていることを理論的に のべなおしたにすぎないと かんがえることだろう。しかし、どんな集団も、その集団のもつエートスが存在するとはいえ、それが その集団の なかでのみ共有されているのであれば、ほんとうの意味で、その集団が社会に対して じゅうぶんな役わりをはたしているとは いえないのではないだろうか。
 特に、韓国では、いま のべた意味での「日本語教師」のエートスを共有しない教師たちと、日本語教師は協同作業をすることが なかば義務づけられている。本稿の意図は、「日本語教師」にとって「あたりまえ」と感じることが おおくの協同者たちにも「あたりまえ」と理解されるための いとぐちをつけることに ある。
 以下の章では、オーディオ・リンガル法への批判をとりあげ、それに かわる教授法として提案されているもの、および、その背後にある言語学理論の方法をさぐるとともに、それが、日本語の基礎研究の分野では、どのような具体的な問題として あらわれているのかということを考察する。ただし、それがオーディオ・リンガル法への批判を意味しているとしても、そのことは「国語学」的手法への回帰ということには、まったくもって ならない。むしろ、より徹底して「国語学」的思考と みずからを区別しながら、その のりこえをめざす方法論として、それらを理解すべきだと主張することになるであろう。なぜなら、ここでいうオーディオ・リンガル法への批判というのは、本章でふれた近代言語学の「共時言語学」「音声中心」という原則を否定するものではなく、その基礎のうえに、構造主義言語学の のりこえをはかった言語学理論に ささえられていると いえるからである。あたらしい教授法は、ふるい教授法の欠点をのりこえようとするものであるけれども、その際、ふるい教授法によって せっかく獲得された成果をすててしまってもよいと、主張するものではない。てばなしてはいけないものは、てばなすべきでないのである。

 

 

    【以下の内容の予定】
3.シンタクスを記述する「日本語学」
 3-1.オーディオ・リンガルへの反省
 3-2.3種類の「の」
 3-3.「文型」という かんがえかたと、その限界
 3-4.目的をあらわす表現の分布
 3-5.可能表現と助詞
 3-6.機能シラバス
 3-7.あたらしい「文法」の わくぐみは、どうあるべきか
4.異文化のなかの一要素として言語をみる「日本語学」 
 4-1.ヒューマニスティック・アプローチ
 4-2.学習障壁
5.ほんとうの意味での「国語学」と「日本語学」の統合とは